57 アシュラリスト 耳を澄まして!感じて!バードウオッチング-視覚障害者と共に-に参加して 鳥と草花の自然観察会

*10年前のレポートです。多少なりとも生態系が変化したかもしれませんが、ご参考までに。この季節、この場所は都会のぜいたくな空間になります。

―以下レポート―
耳を澄まして!感じて!バードウオッチング-視覚障害者と共に-に参加して
平成12年10月28日(土)9:20~14:00
場所:小石川植物園
主催:松下電器産業株式会社社会文化部
協力:(財)日本野鳥の会

 当日の朝は天候に恵まれ、秋晴れ模様だった。現地に着いて知人の担当者から今日サポートをする方の紹介を受けた。豊島区在住の主婦で年齢的には私の母と同じ位のようにお見受けした。徒歩で都営三田線「白山駅」から現地小石川植物園に移動しながら、いろいろとお話を聞かせて頂いた。
 本日、参加された視覚障害者の方の中でも比較的目が見えるといっても、階段の昇降やスーパーでの買物の際、小銭がよく見えず数えられないので、レジに紙幣を渡してお釣りをもらうのよと言っていた。比較的に白っぽいものは分かるとも言っていた。年を取ってきて、両目の合焦距離があわなくなってきたとも言っていました。眼が悪くなり、メガネ屋さんでメガネを作ろうとして、その際に医者から告げられたそうです。「メガネを作っても目がよく見えるようにはなりませんと・・・。」それから6つの点の組み合わせからなる、「点字」を勉強されているという。

 小石川という地名は小石の多い小川があったことによるとも、加賀石川郡から白山権現を勧請したことによるともいう。もと東京市三五区の一つで昭和二二年、文京区の一部となる。江戸時代以来の植物園(もと薬園)であり、近くには後楽園(東京都文京区にある、もと水戸家上屋敷内の庭園。一六二九年(寛永六)藩祖頼房が起工、明暦の大火で焼け、二代光圀(みつくに)によって六九年(寛文九)頃完成。一部現存し指定名勝史跡。周囲には屋根付きの野球場(現東京ドーム)・プール・遊園地などがある)・伝通院(東京都文京区にある浄土宗の寺。関東十八檀林の一。一四一五年(応永二二)聖冏の開創。初め寿経寺と号したが、一六○二年(慶長七)没した徳川家康の生母伝通院殿の遺骸を葬り改称)などがある。
 小石川植物園の前身は小石川御薬園奉行という江戸幕府の職名とともに薬草園を享保六年設置。幕府の薬草園である小石川御薬園(現在の小石川植物園)をつかさどった。芥川小野寺と岡田利左衛門の両家が代々世襲した。江戸時代、小石川御薬園内に小石川養生所(療養施設)を設けた。享保七年、八代将軍徳川吉宗の設立(1722・12・4)とされる。
 また、時代背景としては徳川八代将軍吉宗がその治世(1716~1745)を通じて行なった幕政の「享保の改革」と重なり、倹約の励行、武芸の振興、年貢増徴、定免制の実施、株仲間の公認、町人による新田開発の奨励、上米制・足高制・公事方御定書の制定、目安箱の設置、養生所の設立、医学・洋学の奨励などの政策で幕藩体制の建て直しをはかった。これは江戸幕府三大改革の一つに数えられている。
 さらに、享保一七年(一七三二)、イナゴによる虫害で近畿以西をおそった大飢饉(享保の飢饉)があった。餓死者は一万人以上と推定され、幕府は被害のない地方から救援米を送らせたので江戸でも米価が高騰、翌正月に打ちこわし(江戸中期以後、凶作などで米価が騰貴し生活苦に迫られた町方の貧民大衆が、米屋、質屋、酒屋などの富商の家宅を破壊し、米銀を奪い、物資廉売を要求するなどしたこと)が起きた。庶民にとってこの薬草植物園の存在必要性は想像に難くない。
 小石川植物園、正確に言うと「国立大学法人 東京大学大学院理学系研究科附属植物園(Botanical Gardens, Graduate School of Science, the University of Tokyo)」といい、国立の植物園だ(植物学の教育、研究活動を目的とする東京大学の附属施設で、東京都文京区に本園『小石川植物園』、栃木県日光市に分園『日光植物園』がある)。江戸時代後期、明治にかけて、ここで自前の薬草植物を育成栽培し、診療に当てていたという。下屋敷のある別荘地の一角で医学関連の養成所の意味と明治に入り植物学の育成に寄与した。
 戦時中、小石川植物園一帯は東京大空襲の難を逃れたのだろう。私はかつてこの地域は戦災焼失地域であった記憶があったので被災地と想像した場所であったが、植物園の反対側地域はびっしりとビル・マンション・住宅が建ち並んでいた。それらは、植物園が戦災を免れていたことを証明した。

 日光の取材から帰ってきたという日本野鳥の会の講師はこんなに紅葉が遅れている年も珍しい。原因不明の異常気象がもたらす現象なのかな?と言っていた。
 さて、本日の参加者スタッフを含め28名。障害者とともにゆっくりとした足どりで、植物園の散策が始まった。視覚障害者の方は予めカセットテープで鳥達の声を聞いていたという。鳥の声に対するリアクションは私より早く、驚いた。講師が移動中、木と鳥の関係を説明された。鳥は特に色つきの実を好み(特に赤色。そして硬い種子が詰まっている)、実の中に沢山の種が含まれる、鳥の胃で消化されなかった種が鳥の糞と共に地上に排出される。それは種から見れば、糞が栄養豊富な養分にとって変わり、木から見れば、より遠く自分の種が運ばれる事になり、木同士の干渉が軽減できるのだという。
 レイチェル・ルイズ・カーソン(著書:サイレントスプリング、邦題「沈黙の春」)によれば、「種種雑多の植物が密生すればそれぞれが緊張関係を持ち、それぞれが元気に根が強く育つという。それに対して同一種が密生すると、伝染病が少しでも感染するとあっと言う間にやられてしまう。「多様性」が重要なのです。特に私達に関係する「イネ」は高密度栽培するため、有害鳥虫(害虫ではイナゴ、浮塵子(ウンカ)が代表的、江戸時代にはウンカがもとで飢饉が発生したという)にとっては大きな食卓であり集中攻撃されるため、多くの農薬を要する。それに対し、雑多植物が密生すると、有害鳥虫にとって食べてまずい実の植物もあり、そのお陰で植物同志が互いにバリアーをかけているのだ」、ということを思い出した。
 また、視覚障害者の方から、動物園で動物を触った経験から白い動物は毛の感触が柔らかくて、黒い動物は固いと言っていた。しかし、ヤブ蚊にたかられても、それを払いのけることはできない。眼が見えれば蚊に刺されずに済んだかもしれないが、刺されっぱなしの手がことさらいとおしく見えた。
 小石川植物園ではさまざま植物と鳥達を観察することができた。カラス、スズメと並ぶ都市鳥のヒヨドリ、この鳥は数羽で波形の隊列で飛び、セミを食べるという。都会でセミが少なくなった一因ともされている。また、スズメは木の多い所にはいない。
 その他にはシジュウカラ、オジバト(ハト)、ドバト(原産は中近東)、ウグイス(やぶの中にいる、シベリアからの渡り鳥)、ジョウビタキ(ヒタキ)、セグロセキレイ(キセキレイ)、モズ(必ず木のてっぺん付近にいる)、ムクドリがいた。このムクドリは芝生の上にいる鳥で、第2のカラスともいわれている。スズメが米を食べる害鳥だが、ムクドリは虫を食べてくれる益鳥である。土佐地方では1万羽に1羽が毒を持っていると「うわさ」を流し、この鳥を守ったというエピソードが残っているという。「日本野鳥の会」のスタッフの方が、鳥達の説明をする際に鳥の立体図鑑(指で触ると立体的になっている)の感触で大きさ、輪郭を感じてもらい。鳥の絵の横にあるバーコードをコンパクトスキャナーでなぞると、鳥声を再生してくれる。その感触及び音声で鳥の声を認知できるように工夫をされていた。
 また、コゲラ(キツツキ科)は上にしか上れない鳥で、後ずさりができないという。
 都会で特に目立ってきたカラスもここでは一つの住処となっている感がある。カラスにはねぐらを求めて1箇所に集まるという習性があり、小石川植物園を含め、上野公園、明治神宮なども含まれるという。カラスのテリトリーは約800メートルとされるが、それ以上近寄ってもコンクリート等の建物で遮蔽されるため、高密度に木の上に巣を作ることができる。つがいのない若い雄は互いに縄張り内に入り込んでは、ギャーギャーと騒がしい声を出す。雑食で肉食性のあるカラスは時には共食い、卵なども狙い、ハトの死肉なども食す。つがいの雄は見張り役で雌は卵を温める。かつてはハシブトガラスとハシボソガラスの区別が困難であったが、カラスと人間の距離が格段と近くなったため、その観察も容易になった。これは餌を上げる人が多くなったということと、生ごみの出し方に問題があるという。ゴミ有料化でゴミそのものは半減したというが、カラス自体は一向に減少していないという。
 また、ハトも警戒心の強い鳥だが、一度卵を生むとそこに執拗に居着いてしまう習性がある。特にマンション等の5階あたりの高度が生息高度としてハトの好む高さという。洗濯機の下とか、クーラーの室外機下とかに巣を作られると、その住人は可愛くて思わず餌付けしてしまうという。
 しかし、ハトはその位置高度を憶えているので来年も仲間を連れて里帰りする可能性があるので、心を鬼にして退治することも必要である。なぜなら、ハトの糞にはそれが乾燥して人間の体内に吸引されると重大な病気になると報告されている。特に免疫力の低い、乳幼児がいる場合は注意されたい。
 そして、夜に花を咲かせるカラスウリ、そのため夜行性の蛾がその受粉を助ける。他にはカツラの木の落ち葉を拾ってみて匂いをかぐと甘い匂いがするのに驚いた。それは縁日などの屋台で見受けられる「カルメ焼き」のような匂いである。これには一同驚いていた様子である。
 こうしているうちに12時に食事をはさみ、講師のお話を聞きながらの約4時間半ほどの散策であったが、あっと言う間に時間が過ぎ、充実した楽しい時間を共有できたと思う。都会にもこういう場所があるということを再発見できたことも収穫だった。
 今後も松下電器産業(株)担当者としてはこのイベントを継続していきたいというが、是非共、有意義な企画なので続けていただきたいと思った。私も十分に癒されて帰宅の途についた。
 以上、松下電器産業(株)の社会貢献イベントのリポートでした。
編集・文 Swan代表 栗城(2000/11/01 WED4:42:42 PM)

ゼーレの眼目
 松下電器産業㈱社会文化部と(財)日本野鳥の会の合同企画による小石川植物園でのバードウオッチングだった。同植物園の入場料は大人330円、小人110円。お弁当を持って、ゆっくりとした時間を過ごせます。都内とは思えない空間で、結構穴場的存在ですし、家族連れ、年配の方、絵を書く方など・・・、広い敷地に喧噪もなく、緑と花そして鳥の声を楽しめます。
 そろそろ一部の樹木では紅葉も始まるでしょうか。
 それから、平地に小さい山が至る所にありましたが、何の山ですかと聞いたら、「もぐら」の掘った土の山ですよと教えてもらった。おもしろい発見でした。
 さて、こういうような場所は沢山あると思いますが、気分転換も精神衛生上も、良いですね。
園内各所ではヒガンバナが咲き始めたようですよ。
アクセスなど詳しくは、下記、小石川植物園のサイトとまで
http://www.bg.s.u-tokyo.ac.jp/koishikawa/KoishikawaBG.html
サイト内の「すべての開花状況」を開き、見ごろの植物カレンダーの日付をクリックすると、開花情報が見られます。

多様性の維持:
 イギリス生態学者チャールズ・エルトン。私達を悩ませている、大部分の災いのもとは、今まで生物学的無知の報いといえよう。1世代前には、広大な地域に1種類だけの木を植えると害がある(例えば、ニレの木を公園に沢山植えると、特有の伝染病が同じ種が隣接しているため、急激に広がる。米等もそうである。)事など全然解らなかったのだ。種々雑多な種の共存があれば、例えばニレの木に関するオランダニレ病はニレの木以外の他の種に抑制され、自然淘汰される。後は人間が病気になった木を丁寧に取り除けば安易に恐ろしい化学薬品を使用せずに済む。レイチェル・カーソン「沈黙の春」-そして鳥は鳴かず-から。
 環境問題の母、レイチェル・カーソンの著作に「多様性」という言葉がよく出てきます。経済効率のため1つの作物(例えばイネなど)を大量に作ると害虫にまともにやられる。様々な種類の作物を一緒に作ると収穫量は減るが、ある作物が害虫にとっていやな物質を出して退散させ、結果的に他の作物を守ってくれる。自然にはもともと、多様性が備わっていたのですが、多様性を考慮しないとそれが自分に跳ね返ってくるのも皮肉なことです。
 また、個人的な多様性は米国では「5つの窓」と言っているようです。人間の心は多面体ですが普段はひとつかふたつの窓しか開かずに生活しているのかも知れません。様々なトレーニングによって、他の窓(可能性)を開き、コミュニケーションを滑らかにすることができると聞いたこともあります。
 多様性は、「答えはなにもひとつだけではないよ」と語っているような気もします・・・。

環境問題の母
 一九六二年にレイチェル・ルイズ・カーソンによって「沈黙の春」が描かれ、アメリカの環境保護運動に火をつけました。「沈黙の春」を手にしたJ・F・ケネディは環境問題に対する国民の意識を高めるために全米行脚の演説会を行いました。今や、地球規模の問題として考えなければならない自然、いまや日本にとっても焦眉の問題です。
 結婚はせず、鳥と自然を大切にしたカーソンは農薬の毒性の研究を孤立無援で続け、当時の農務省絡みの科学者からも総スカンでした。当時の夢の殺虫剤である農薬DDT、鳥達の異常死をきっかけにその毒性を初めて発見し、たったひとりでアメリカ政府、薬品業界、農薬学会等と対決。自然に深い愛情を注ぎ込む力が後世の環境問題研究者のバイブルともなった本です。ケネディ大統領も大絶賛したほど。科学者でありながら、文体は詩情的で繊細です。
 しかしながら、現在のアメリカは自分が責任を負わされる立場になると、手のひらを変えたような行動に出ます。例の「*えひめ丸」引き上げについては、沈没船近隣のハワイ沖の環境に与える影響について調べる必要ありといい、その引き上げ作業が伸びているにも関わらず、ブッシュ米大統領は、地球温暖化防止のための京都議定書に不支持を表明しました。アメリカは国益を優先し、日本を含め先進各国にも大変影響を与えました。
 国内では当時の森喜朗首相は事件発生時に休暇を取りゴルフをプレーしていて、事件の一報を聞いた後もそのままゴルフ場に留まったことが大きな問題となりました。第一報を受けたあとから第三報まで1時間半にわたってプレーを続けたことをマスコミにこのことを問いただされた森前首相が「プライベートだ」「後の人に悪いから」などと答えたことで批判は拡大しました。森前首相の主張によると、*えひめ丸事件の一報が入った時、その場を離れないように言われたのでゴルフ場でプレーを続けながら待機していたとのこと。この事件の報道で違う日に撮影された森前首相の楽しげなゴルフプレイ姿が繰り返し放送されたため印象が悪化。既に低かった支持率が5.7%まで落ち込み、2ヵ月後に森前首相は退陣へと追い込まれました。
 21世紀は世界が一丸となって、人口問題、食糧問題、水問題とその背景にある環境問題を乗り越えなければならないという時期に、それは大変残念だった記憶です。
 晩年のカーソンは養子を育てながら、さらに自身は「がん」に侵されながらも、研究を続けました。
 自然と人を深く愛する女性ならではの偉業だったのではないでしょうか。カーソンは私にとって心の母親でもあります(と勝手に思っています)。

*えひめ丸事件とは、2001年2月10日8時45分(日本時間)、アメリカ合衆国ハワイ州のオアフ島沖で、愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船「えひめ丸」が浮上してきたアメリカ海軍の原子力潜水艦「グリーンビル」に衝突され沈没した事件。乗務員の35人のうち、えひめ丸に取り残された教員5人、生徒4人が死亡して、救出されたうち9人がPTSD(Post-traumatic stress disorder:心的外傷後ストレス障害)と診断された。

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