55 アシュラリスト エッジ オブ ペイン(Edge of Pain):EOP
「僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ」(J・D・デリンジャー)。
期待とはいずれ疑惑に変わる闇、勇気とはいずれ無力を思い知る能力、愛とは始めは点で存在し、その後、集合体化して自らすすんで無意識のトラウマを描きなぞること。
毎日ひとつとして同じもののない、それぞれの魂と肉体の負荷試験。氷点下10度(ビールが凍る温度)のぬくもり。
「冷たい」は冷たいものを触ると「爪痛い」からきている。
ミットを突き抜ける直球のような苦痛を受け止めるホログラム・ゼーレ。
魂のゼロポジション(筋肉が有効に使えるポジション)がどこにあるのか検証の日々。
わくわくする馬鹿。
苦しみの土台があればこそ、新しい苦痛を受け入れることができる。楽は苦の種を宿す。従って、苦の中こそ、楽のステージ。肝心なことはどこまで欲求不満に耐えられるかだ(フラストレーション・トレランス)。
見えない翼、届かぬ吐息、神の手。そのいずれかが、身を守る術、身につける術。居場所のない、持て余す苦痛。痛みの矜持(きょうじ:プライド)。悲しみの空走感を備えた憂い。自己憤怒(忿怒)は役に立たず、厄介だか、他人のそれは何らかのヒントになる。
抑制の美学の充足と補充。心残りは身を切る痛み。後悔は引き裂かれる痛み。幸せな記憶、満足感や達成感がそれらを中和する。魂の隠れ家はいつも苦痛。安楽は安住ではない。安定は不安定の予告。それが暗黙の魂基準。向き合いながら生きる魂のクロニクル。始めたら、その一歩を躊躇(ためら)うな!
動くことでゼーレが可視化する。
可視化すれば蓄積となる。ストレス強制社会において、ストレスなく自然体をどれだけ維持できるか。経験に好き嫌いはあっても、損はない。気持ちの整理が容易くないとき、痛みを伴った経験は有効だ。
迷いがあっても迷いがない顔をしろ!
許容範囲の中で軌道修正をしているうちに、その許容範囲が広がってしまう。結局、軌道が修正できない痛みだけ残る。危険を避ける経験、何が危険なのか察知する能力。時間、空間、仲間による経験の不足。こんな時は、トリック(trick:肯否混在)でリラックス。喜怒哀楽を整理し、感情をニュートラルに戻す。心まで手が回らない、魂まで手が足りない。予断つきの判断をする悲しい男、確信犯であればなおさら切ない。いかれた奴と恋人は様々な妄想を抱く。揺れながらブレる自己完結型ゼーレ、思考リコール。選ぶものは、ほとんどスカ。損得の彼岸を往来しながら、起きて寝て、また起きる。飽きもせず、懲りもせず、視界が閉ざされて、闇の中への出所進退は煩悩の痙攣。温かさ通信を受信した後、しんなりと痙攣が治まったら光を味方につけちゃって…、脳の焼き付け、胸の刻印を撫で下ろし、妄想のインプリント(imprint擦り付け)、軽めのマインドメンテナンス。もはや、思考はいらない、感応と受容といっしょに待っていればいい。混乱の中の記憶には無意識な入れ替えが起きる。
確かな記憶とは何だ!いつも自分に都合のいいようにディフォルメされている自己隠蔽。
正しい事実とは何だ!見るそばから、嘘化粧が始まる。
心の闇に一瞬光が差したとき、照らし出され、浮かび上がるおどろおどろしたものを見る悲しみ、書く苦痛。知ることが始まりか?知らなければ良かったか?人は真実を知った後、ため息をつく。「どうしてこんなことに…。」
死んではいけない生き物、死がシステムにされた生き物、長生きしてはいけない生き物たち。
酒造り工場の酒の飲めない工場長へ、カリー!(沖縄で乾杯の意)。
好きだけど止めよう、もう終わりにしよう。潮時が肝心だ。恋愛は相手より多く愛した側が敗者となる矛盾を常に伴う、あたかも恋愛と苦痛は仲のいい夫婦のようだ。離婚はできぬ苦痛は悪者か?
それでもジャンプする猫ように顎を引き、首を固定して、人はサッツ(踏み切り)を切らなければならない。人生は見切り発車の連続と継続、無意識の持続(無明)。さらにリスクという「断れないおまけ」がもれなくもらえる。
カンテ(踏み切り台)は見えるか?見えたか?心臓はせりあがってきたか…?キャッチャーの姿勢でタイミングを待て、早いタイミングは余計な力が入り、失敗する。しかし、ジャンプは飛ぶまでわからない。向かい風は有利と思え(スキージャンプの際)、その日が来るまでインサイドワークで過ごす。それが生きるということだ。
私の詩は苦悩と伴に育ち、私の師はインパクトとインスピレーションであり、そして魂のインパルスは飛光する。戦うよりは順応を、理想よりは現実を、悲しみより笑顔を…。
苦痛が探求の極みにいざなう。企画は沈黙のうちに実行する。泣いて消耗する体力より、笑いをこらえる方が体力を失う。面倒くさいときは偽りの自分と本当の自分を使い分ける。
☆
ゼーレの眼
♪「虹と雪のバラード」
青春時代の1ページの居場所をセッティングしてくれた曲。学生時代それは切ない恋のバトルの中に優しいまなざし、真剣なまなざしがあった。詞はきれいだし、曲調もムードがある。学生時代に学校の先生カップルが謝恩会イベントで婚約を発表した。学生から冷やかされながら、そのバックで流れた曲。先生たちは生徒が作った紙吹雪のふりそそぐなか、先生・生徒ともにいやでも盛り上がった。私にとってはじめて結婚というものの夢と憧れにリンクした1曲であり、宝石のようなワンシーンだった。
札幌五輪1963年♪「虹と雪のバラード」
作詞:河邨文一郎 作曲:村井邦彦 歌:トワ・エ・モワ
1.虹の地平をあゆみ出て
影たちが近づく 手をとりあって
町ができる 美しい町が
あふれる旗、叫び、そして唄
ぼくらは呼ぶ あふれる夢に
あの星たちのあいだに眠っている北の空に
きみの名を呼ぶ オリンピックと
2. 雪の炎にゆらめいて
影たちが飛び去る ナイフのように
空がのこる まっ青な空が
あれは夢? 力? それとも恋
ぼくらは書く いのちのかぎり
いま太陽の真下に
生まれかわるサッポロの地に
きみの名を書く オリンピックと
生まれかわるサッポロの地に
きみの名を書く オリンピックと
僕のやる仕事はね
「僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ」J・D・デリンジャー、野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』(白水社刊)。私を発奮させ、心を揺り動かした言葉だ。あえて仏教的連想をすれば、「光網童子(こうもうどうじ)」だろうか。網明菩薩ともいう。文殊菩薩の福徳を司る。この尊は、四弘誓願の船に乗り、生死の海中に教えの網を張って沈没した衆生を救い、常楽の宝処に至らせるのを本誓とする。
苦痛の突端を経験した者が、新たな視界を手に入れる。それを見たら、休んでいる暇や、病気に甘んじている暇もなくなり、時を惜しむようになる「焦りなき焦り」である。
さぁ、動け!そして確かめよ、闘争に明け暮れたあなた自身を・・・。生まれ変わった人よ!!
◇
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「僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ」(J・D・デリンジャー)。
期待とはいずれ疑惑に変わる闇、勇気とはいずれ無力を思い知る能力、愛とは始めは点で存在し、その後、集合体化して自らすすんで無意識のトラウマを描きなぞること。
毎日ひとつとして同じもののない、それぞれの魂と肉体の負荷試験。氷点下10度(ビールが凍る温度)のぬくもり。
「冷たい」は冷たいものを触ると「爪痛い」からきている。
ミットを突き抜ける直球のような苦痛を受け止めるホログラム・ゼーレ。
魂のゼロポジション(筋肉が有効に使えるポジション)がどこにあるのか検証の日々。
わくわくする馬鹿。
苦しみの土台があればこそ、新しい苦痛を受け入れることができる。楽は苦の種を宿す。従って、苦の中こそ、楽のステージ。肝心なことはどこまで欲求不満に耐えられるかだ(フラストレーション・トレランス)。
見えない翼、届かぬ吐息、神の手。そのいずれかが、身を守る術、身につける術。居場所のない、持て余す苦痛。痛みの矜持(きょうじ:プライド)。悲しみの空走感を備えた憂い。自己憤怒(忿怒)は役に立たず、厄介だか、他人のそれは何らかのヒントになる。
抑制の美学の充足と補充。心残りは身を切る痛み。後悔は引き裂かれる痛み。幸せな記憶、満足感や達成感がそれらを中和する。魂の隠れ家はいつも苦痛。安楽は安住ではない。安定は不安定の予告。それが暗黙の魂基準。向き合いながら生きる魂のクロニクル。始めたら、その一歩を躊躇(ためら)うな!
動くことでゼーレが可視化する。
可視化すれば蓄積となる。ストレス強制社会において、ストレスなく自然体をどれだけ維持できるか。経験に好き嫌いはあっても、損はない。気持ちの整理が容易くないとき、痛みを伴った経験は有効だ。
迷いがあっても迷いがない顔をしろ!
許容範囲の中で軌道修正をしているうちに、その許容範囲が広がってしまう。結局、軌道が修正できない痛みだけ残る。危険を避ける経験、何が危険なのか察知する能力。時間、空間、仲間による経験の不足。こんな時は、トリック(trick:肯否混在)でリラックス。喜怒哀楽を整理し、感情をニュートラルに戻す。心まで手が回らない、魂まで手が足りない。予断つきの判断をする悲しい男、確信犯であればなおさら切ない。いかれた奴と恋人は様々な妄想を抱く。揺れながらブレる自己完結型ゼーレ、思考リコール。選ぶものは、ほとんどスカ。損得の彼岸を往来しながら、起きて寝て、また起きる。飽きもせず、懲りもせず、視界が閉ざされて、闇の中への出所進退は煩悩の痙攣。温かさ通信を受信した後、しんなりと痙攣が治まったら光を味方につけちゃって…、脳の焼き付け、胸の刻印を撫で下ろし、妄想のインプリント(imprint擦り付け)、軽めのマインドメンテナンス。もはや、思考はいらない、感応と受容といっしょに待っていればいい。混乱の中の記憶には無意識な入れ替えが起きる。
確かな記憶とは何だ!いつも自分に都合のいいようにディフォルメされている自己隠蔽。
正しい事実とは何だ!見るそばから、嘘化粧が始まる。
心の闇に一瞬光が差したとき、照らし出され、浮かび上がるおどろおどろしたものを見る悲しみ、書く苦痛。知ることが始まりか?知らなければ良かったか?人は真実を知った後、ため息をつく。「どうしてこんなことに…。」
死んではいけない生き物、死がシステムにされた生き物、長生きしてはいけない生き物たち。
酒造り工場の酒の飲めない工場長へ、カリー!(沖縄で乾杯の意)。
好きだけど止めよう、もう終わりにしよう。潮時が肝心だ。恋愛は相手より多く愛した側が敗者となる矛盾を常に伴う、あたかも恋愛と苦痛は仲のいい夫婦のようだ。離婚はできぬ苦痛は悪者か?
それでもジャンプする猫ように顎を引き、首を固定して、人はサッツ(踏み切り)を切らなければならない。人生は見切り発車の連続と継続、無意識の持続(無明)。さらにリスクという「断れないおまけ」がもれなくもらえる。
カンテ(踏み切り台)は見えるか?見えたか?心臓はせりあがってきたか…?キャッチャーの姿勢でタイミングを待て、早いタイミングは余計な力が入り、失敗する。しかし、ジャンプは飛ぶまでわからない。向かい風は有利と思え(スキージャンプの際)、その日が来るまでインサイドワークで過ごす。それが生きるということだ。
私の詩は苦悩と伴に育ち、私の師はインパクトとインスピレーションであり、そして魂のインパルスは飛光する。戦うよりは順応を、理想よりは現実を、悲しみより笑顔を…。
苦痛が探求の極みにいざなう。企画は沈黙のうちに実行する。泣いて消耗する体力より、笑いをこらえる方が体力を失う。面倒くさいときは偽りの自分と本当の自分を使い分ける。
☆
ゼーレの眼

♪「虹と雪のバラード」
青春時代の1ページの居場所をセッティングしてくれた曲。学生時代それは切ない恋のバトルの中に優しいまなざし、真剣なまなざしがあった。詞はきれいだし、曲調もムードがある。学生時代に学校の先生カップルが謝恩会イベントで婚約を発表した。学生から冷やかされながら、そのバックで流れた曲。先生たちは生徒が作った紙吹雪のふりそそぐなか、先生・生徒ともにいやでも盛り上がった。私にとってはじめて結婚というものの夢と憧れにリンクした1曲であり、宝石のようなワンシーンだった。
札幌五輪1963年♪「虹と雪のバラード」
作詞:河邨文一郎 作曲:村井邦彦 歌:トワ・エ・モワ
1.虹の地平をあゆみ出て
影たちが近づく 手をとりあって
町ができる 美しい町が
あふれる旗、叫び、そして唄
ぼくらは呼ぶ あふれる夢に
あの星たちのあいだに眠っている北の空に
きみの名を呼ぶ オリンピックと
2. 雪の炎にゆらめいて
影たちが飛び去る ナイフのように
空がのこる まっ青な空が
あれは夢? 力? それとも恋
ぼくらは書く いのちのかぎり
いま太陽の真下に
生まれかわるサッポロの地に
きみの名を書く オリンピックと
生まれかわるサッポロの地に
きみの名を書く オリンピックと
僕のやる仕事はね
「僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ」J・D・デリンジャー、野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』(白水社刊)。私を発奮させ、心を揺り動かした言葉だ。あえて仏教的連想をすれば、「光網童子(こうもうどうじ)」だろうか。網明菩薩ともいう。文殊菩薩の福徳を司る。この尊は、四弘誓願の船に乗り、生死の海中に教えの網を張って沈没した衆生を救い、常楽の宝処に至らせるのを本誓とする。
苦痛の突端を経験した者が、新たな視界を手に入れる。それを見たら、休んでいる暇や、病気に甘んじている暇もなくなり、時を惜しむようになる「焦りなき焦り」である。
さぁ、動け!そして確かめよ、闘争に明け暮れたあなた自身を・・・。生まれ変わった人よ!!
◇
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