47 アシュラリスト 絵島・生島悲恋物語
徳川七代将軍家継の生母月光院に女中として仕え、出世して大奥の女中頭である大年寄として威勢を振るった絵島と俳優生島新五郎の恋物語です。
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当時、大奥に起居する女人らは、将軍やその側近に接することが多く、間接的に政治に口出しすることができるため、幕閣たちは、大奥の粛清を考えていました。
また、大奥女中の歓心を求めて御用商人としての利をむさぼる者が、大奥女中の宿下がりの際に、芝居遊山に誘い、酒宴を催し俳優を招いてその興をたすけることもありました。
1714年正月十二日、絵島は芝増上寺にある六代将軍家宜の御陵屋へ月光院の代参として詣でた帰り、同行の女中衆と共に山村座で芝居見物して夕刻に帰りました。
この事が、猥(みだ)りなる仕方不届となり三月五日関係者の処分が行われました。実際、絵島は俳優生島新五郎と馴初め(なれそめ:恋仲になるはじめ。恋のきっかけ。)を重ねていたようです。
絵島は、はじめ「死罪」と定まりましたが、その後刑を減ぜられ「永遠罪」となりました。絵島三十三歳です。生島新五郎は三宅島へ流罪、その他多くの関係者が処分されています。
高遠藩は三月十二日絵島を江戸で引き取り、四月一日に高遠城下に連れて到着しています。絵島の囲い屋敷は八畳一間で、衣類は木綿着物、食べ物は一汁一菜でした。高遠藩では絵島の恩赦を願い出たがかなわず。二十八年後の1741年六十一歳で病死しました。
遺体は塩漬けにされ、幕府の検死をえた後、日蓮宗の蓮華寺で土葬されました。
資料:「長野県上伊那誌歴史編より」
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ゼーレの眼
私は一度、この高遠町(たかとうちょう)を訪れたことがあり、絵島のその座敷牢のような「八畳一間の囲い屋敷」は外から見学ができました。高遠城跡地は公園となっていて、春には見事な桜の名所のひとつでもあります。
政治の謀略の餌食と翻弄され、純粋な恋心とその哀れさゆえに、時代劇の題材になる「絵島・生島物語」ですが、日本で語り継がれる悲恋物語です。
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手相の世界では、左小指の根元にある縦線が、恋敵もしくは恋愛を邪魔するものの暗示だとか…、縦線が複数あれば、その数だけの恋敵。恋愛に国家権力が介入するとは、普通の人は経験し得ぬ事だ。
当時の国家権力に利用されながらも、ただ一つの愛を貫いた絵島の恋は、多くの女性の憧れと共感、そして涙を誘ったに違いない。
当時、この世で夫婦になれなければ、心中という方法もあった。それさえもできずに離れ離れとは、死をも超えた苦痛であったに違いない。絵島の生きた同時代の作家:近松門左衛門の「「曽根崎心中」にある道行の出だしは日本の戯曲史上屈指の名文だと思う。「この世のなごり、夜もなごり。死にに行く身をたとふればあだしが原の道の霜。一足づつに消えて行く。夢の夢こそあはれなれ」。途中を飛ばして、「我とそなたは女夫(メオト)星。必ず添ふとすがり寄り。二人が中に降る涙川の水嵩(ミカサ)もまさるべし。」と続く…。
幽閉さながら孤独死した絵島、そんな夢を見ていたのか胸をよぎる。
ちなみに、心中を肯定するわけではないが、兵庫県尼崎市の「近松記念館」の前庭には、りっぱな近松像が鎮座している。「近松かたりべ会」ボランティアの方々によると、「近松作品は心中物の終わりが必ず『成仏まちがいなし』となっていて、人に対する優しいまなざしがうかがえます」などと解説してくださるという。確かに、事件を単なるスキャンダルとして描くのではなく、誰にもある人としての弱さに迫って描いたから、多くの共感を呼んだに違いない。
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景気が悪い昨今だが、「吉宗の大奥リストラ」というのがあった。どういう方法がよいか考えた末、美人のみ50人リストラするという命令を出したら、大奥の誰からも文句が出なかったという。実に微妙だ。
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