43 アシュラリスト ULLAMBANA(ウランバナ)

ULLAMBANA(ウランバナ)とは、盂蘭盆会(うらぼんえ)のことである。サンスクリット語の音写であろうか。

あの世との境があいまいになる。祖先の霊を迎え、供養し、送る。夜の暗やみを背景とした盆踊りにも、どこか異界とつながる趣がある。盆は仏教の「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」に由来し、農耕儀礼と結びついたとされる。旧暦七月十五日を中心とする行事だったが、新暦採用後、季節感に合わせ月遅れの八月に行うところが多くなった。これは夏休みが定着したことや八月十五日に終戦記念日を迎えることも関係しているという。九月に行う地域もある。盆踊りに各地で盛大に行われるこの行事は国民的文化でもある。

広辞苑には、盂蘭盆は盂蘭盆経の目連(もくれん)説話に基づき、祖霊を死後の苦しみの世界から救済するための仏事と説明される。

 また、「中元」。それは三元の一つで、陰暦七月一五日の称だ。元来、中国の道教の説による習俗であったが、仏教の盂蘭盆会と混同され、この日、半年生存の無事を祝うとともに、仏に物を供え、死者の霊の冥幅を祈る。

 中国の中元については、こんな言い伝えがある。

中国の水をつかさどる神、龍王の3人の娘がそれぞれ男の子を生みました。

115日に生まれた子は、上元一品(じょうげんいっぽん)の天官(人間に幸福を与える職)

715日に生まれた子は、中元二品(ちゅうげんにほん)の地官(人間の罪を許す職)

1015日に生まれた子は、下元三品(かげんさんぽん)の水官(人間の災厄を取り去る職)という位を授かったそうです。

これがやがて日本に伝わり、「お中元」の習慣が残ったとされるのである。

「中元は」本来は贖罪、つまり罪滅ぼしの品を送る日なのである。常日頃、ご迷惑やご心配をかけている人に、改めて感謝する日とも言えるのである。

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「あちゅいよ!あちゅいよ!」

数年前、新聞記事を読みながら、あまりに切なくて涙が出た。

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歳女児、虐待死「頭から熱湯かけた」母ら逮捕
 200675日午前720分ごろ、滋賀県高島市の公立高島総合病院から県警高島署に「診察した女児の全身にあざがあり、虐待の疑いがある」と通報があった。女児は心肺停止状態で、頭部熱傷による敗血症で間もなく死亡。署員が病院にいた同市新旭町安井川、航空自衛隊饗庭野(あいばの)分屯基地(高島市)12高射隊空士長の長阪健太容疑者(24)と妻の千鶴容疑者(25)に事情を聞いたところ、女児は二女優奈ちゃん(2)で、「頭から熱湯をかけた」と認めたため、同署は6日未明、両容疑者を傷害致死の疑いで逮捕した。
 調べでは、両容疑者は6月中旬から75日未明にかけ、自宅で優奈ちゃんに殴るけるの暴行を加え、熱湯を浴びせるなどして死なせた疑い。全身に十数か所のあざがあり、調べに対し両容疑者は「ご飯を食べるのが遅いのでイライラした」と供述している。
 千鶴容疑者は昨年10月に長阪容疑者と結婚、長男(8か月)をもうけ、長女(3)、優奈ちゃんと5人で県営住宅に住んでいる。優奈ちゃんについて「養育に不安がある」と県中央子ども家庭相談センター(草津市)に相談、20041月から大津市内の乳児院に預けていたが、今年516日から再び同居していた。
 同センターの漢(あや)正史次長は「高島市の担当者と協力し、家庭訪問を試みたが、優奈ちゃんの状況を直接確認したことはなかった。もっと接触の努力をして、虐待の事実をつかむべきだった」と話している。(200676日報道)
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同じ県営住宅の住民によれば、浴室から「汚いんじゃ」とどなる男の声や女の子の泣き声が聞こえたり、両容疑者はたびたび、子どもたちを置いたまま外出し、優奈ちゃんらが、外にさまよい出て、「おなかがすいた」と訴える優奈ちゃんに食事を与えたこともあったという。死の数日前、まだよく回らぬ舌で「あちゅいよ(熱いよ)、あちゅいよ」と叫ぶ声を近所の人が聞いている。
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育児放棄、空腹、飢餓、幼く抵抗できない者への暴力、火傷、ここは戦時中のような光景。

幼女よ、あなたが生きていたなら6才、いろいろなことが楽しくて、いろいろなことに興味を持ち、両親の愛をいっぱい受けながら…。
悲しくて思わず句を書いた。
「幼子よ 頼るべきが 鬼親ならば どこへかゆく」
「湯かけて泣き叫んでも 聞く耳持たぬ鬼ならば 己にかけよ地獄の湯」
「詫びても 生涯詫びきれぬ 我が子の思い すがる切なさ、愛をもとめる弱さを」
 (以上、栗城)
「子羊を創(つく)り給(たも)うた神が、汝(なんじ)を創り給うたのか」と、虎に問うたのは、英国の詩人、ウィリアム・ブレイクだ。


男親は国民の生命・財産を守る自衛隊員、暴行の動機もよく分からない、夫婦の一方がなぜかばえなかったのか。そして近所の人たちも何か手立てはなかったか、さらに県中央子ども家庭相談センターの決まり文句的なコメント。これらの悪条件が不幸にも重なり、幼女は死に至った。
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「生きていても、いいんだよ。おまえは……生きていても、いいんだ。本当に、生きていても、いいんだよ」。天童荒太の「永遠の仔」のドラマを思い出す。

主人公は
モウル:もぐら、トラウマで外に出ることが怖くなった子、

ジラフ:キリン、親からたばこの火をつけられてキリンの模様にようになってしまった子、

優貴:父親から性的虐待を受けた子の3人だった。
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港区のあるクリニックの院長によると、
夫婦で一旦子供ができれば女の忍耐の上に成り立つ社会。心の傷に寄り添う。解決ではなく、寄り添うことが必要である。私は誰からも救ってもらえない。ゆとりや安らぎがない社会のリアリティに気付かないで生きている現代人。クリニックには児童虐待に苦しむ人が年に約1000人が相談に来るという。
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優奈ちゃん、この次ぎ生まれ変わることが出来るのなら、あなたの名前のように優しいお父さんとお母さんのところへ生れて来るんだよ。ルソーおじちゃんやゲーテおじちゃん、そしてニーチェおじちゃんが言ったような人生を送るために。

「人間は2度生まれ変わる。最初は生存のためで、次は社会のためにである」(ルソー)
「どうであろうと人生はよいものだ。」(ゲーテ
)
「これが人生か!ならばもう一度!!」(ニーチェ
)

子供の詩

「ママ」と言う詩がある。
<
あのねママ/ボクどうして生まれてきたのかしってる?/ボクね ママにあいたくて/生まれてきたんだよ>
 詩の作者は当時3歳だった福島市の田中大輔さん(27)。この詩には98年に曲がつけられ、NHKの教育番組「おかあさんといっしょ」の歌にもなった。

 詩の選者は「古今東西の人が、あるいは哲学者が頭をひねってきた大命題に、3歳の大輔君が、すらりと答えた」「宝石のような言葉」と評している。

 幼女もこのようにして生れてきたのだろう。

子供のいない人はいても、親のない人はいません。子は親を縁として生れてくるのですから、親子の縁は自分がこの世で生きていくいちばん基本の関係です。

そして最後に「絶望の涙」という詩を引用したい。
 明治生まれの詩人竹内てるよは結婚して男児をもうけ、やがて病床の人になる。離縁を告げられた。子供は手放さないという。わが子を殺して自分も死のうと赤い紐を手に取った。首に巻こうとしたとき、目の前にちらちらする赤い色がうれしかったのだろう。赤ん坊がニコッと笑った。母はわれに返る。
「生まれて何も知らぬ吾(わが)子の頬(ほお)/母よ絶望の涙を落とすな/その頬は赤く小さく/今はただ一つの巴旦杏(はたんきょう・すもも)にすぎなくても/いつ人類のための戦いに/燃えて輝かないということがあろう」
そして絶望の詩人はこう締めくくる。
「ただ 自らのよわさといくじなさのために/生まれて何も知らぬ 吾が子の頬に/母よ 絶望の涙を落とすな」

優奈ちゃんの御冥福を祈る。合掌。


耳をすまさなくては、ひどい目にあっているのは、戦争をしている国だけじゃない。

自省を持込めて、「私たちは誰もが偉大なことをなしうるわけではありません。けれども、ささやかなことを、大きな愛をもって行なうことはできるのです」(マザー・テレサ)。

ゼーレの眼目

盂蘭盆会は、釈迦の弟子である目連が、その神通力によって、亡き母が餓鬼道に落ちて苦しんでいることを知り、大勢の僧が真心こめて供養し、母親を苦から救ったことに由来するといわれる。

 母が餓鬼道の苦しみを受けなければならなかったのは、我が子を大事に思うが故に自分の子供のことしか考えられず、他の人たちの事を省みない慳貪(けんどん・物惜しみが強く施しができず、自分中心で人を思いやる心のないこと)の罪よるものであった。仏画などに登場するように餓鬼は、その悪業の報いとして体はやせ細り、のどが細く針の孔のようで飲食することができないなど、常に飢渇に苦しみ、悩まされる。

 その罪の苦しみは、倒懸(とうけん・逆さ吊り)の苦しみとも表現され、その倒懸の梵語「ウランバナ」が盂蘭盆会の語源となったといわれている。さらに生き方が正しい人間の道からはずれていること、物の見方が人間の道からかけ離れ、逆さまになっていることをも意味する。

 自分さえよければ、という自己中心の心を内省し、また子を一途に思う父母の情愛に思いをはせ、命の源泉である先祖へ感謝の供養をささげよう。

来月、お盆近くなったら、またこの話を思い出してくれ。栗城より。

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