40 アシュラリスト 七夕に思いを寄せて(洒涙雨)
蛍(ほたる)はなぜ光る?
恋を届けるために光る。待っていてはいけない。
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七夕は雨と縁が深い。
七月六日(陰暦)に降る雨を、昔の人は「洗車雨(せんしゃう)」と名づけた。
織女と会うために牽牛(けんぎゅう)は、乗っていく牛車を洗う。その水が雨となって地上に降るという。
七月七日の雨を「洒涙雨(さいるいう)」(涙をそそぐ雨)といい、再会した二人の惜別の涙に見立てている。
愛別離苦の悲しみを雨に託し、古人は星祭りの空に見上げたのだろうか。
また、掃晴娘(そうせいじょう)は、軒先につるし「雨よ、降らないで」と願を懸ける紙人形だ。頭を白紙で作り、体は赤と緑の服を着た格好にして小さい箒(ほうき)に結べば掃晴娘が出来上がる。これが中国から日本に入って「照る照る坊主」になった。旧暦の七夕を新暦に換算すると、大体梅雨明け後の8月になる。それが太陽暦にかわり梅雨時に移動したため、七夕と掃晴娘がいつしか付き物のようになってしまった。
掃晴娘は手にした箒で雲を掃き、雨を止めてくれるそうだ。涙をあおる雲は掃き出してもらおう。しかし、悲しい涙(雨)にはもう少し付き合っていたい…。
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「どれくらいと測れる愛は愛ではない」(シェークスピア)
「戀の測りがたさに比べれば、死の測りがたさなど、何ほどのことでもあるまいに」(オスカー・ワイルド)
恋は不可解。
死は一度きりだが、「恋は後日リセットを強要される精神情動」。
恋の古体字の「戀」は、心が複数の糸にこんがらがるさまを指しているという。
目に見えぬものだって心の支えになるときがある。
触れることのできない愛にやさしく抱き締められるときもある。
たとえ絶望しても1人ではない。
人間はいつもどこかでだれかとつながっている…。
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ゼーレの眼
カメレオンのような男、それは浮気性の男という意味か?眼がぎょろっとして、日本では人気がなさそうな動物だが、南米では近くの色に変化することから「その人の身になる、その人の気持ちになる」という考え方をする。文化の違いである。明るいととるかいなかはあなた次第だ。カメレオンのような男性とは褒め言葉なのだ。思いやりのある優しい男。確かに色が変わるほど親身なってくれる男はそう多くない。恋の盲目になる前に、今一度、眼を見開きじっくり眺めてみよう!
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美しくも切ない七夕の物語と悲壮な現実の姿との対比に、ふと、夏目漱石の「草枕」を想い起す。俗世間を逃れて旅に出た青年画家と、温泉場の美しく才気煥発な女性との交渉を通して、現実を第三者的にながめる非人情の世界を展開していく。
◇「草枕」
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角(カド)が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(クツロゲ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(ノドカ)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
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和やかに生きたいと思う。優しく生きたいと思う。尊く生きたいと思う。人情のある男でいたい。
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AEGIS シリーズ全編及び「ゼーレの眼」と画像
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