36 アシュラリスト 好きの原型(prototype)
好きの原型(prototype:プロトタイプ)は中学の同窓生。思春期の教室風景。
「何がそんなに悲しいのよ?」
数え上げたらキリがない。後ろ姿で泣ける人、泣かす人。お似合いと張り合い。のんきな君の占い、昨日のことしか当たらない。
「いい夢みて、おやすみ!」
精神的浪費癖にしてストイック(stoic)。最近、脳ミソがなまっていないか?体もなまる。精神もなまる。飯は1日1食。もう一段、もう一歩上がろうとするから苦しくなる。こういうときは一歩さがると楽になるよ、きっと楽になるさ。
嘘をついて手に入れた事実は別の嘘に呑み込まれる。
事実でありながら嘘に生まれ変わる苦しみ、それを「愛」と呼ぶ。嘘から真(まこと)は出るが、真から嘘は出ない。できれば「真サイド」に居たい。それが事実と真実の違い。多くは幻想。または事実としての愛はあっても、真実の愛は創造しなければ存在しない。自分で創らない以上現存することができない…。
アンテナだけではダメ、データだけでもダメ、生きているだけでもダメ、何かを進めなければならないって。「不」にはそんな意味と行為が含まれる。
恋は電磁石、電気を流さなければ、恋の引力は生まれない。磁界が強くなると受ける力も強くなる。問題は電気がいつまで持つか、電気が切れると、やっかいだ。しかし、電気を流し続けることもできない。
☆
ゼーレの眼
1985年3月17日、科学万国博(筑波)が開幕した。そこに「ポストカプセル」なる郵政省(当時)の企画があがった。
ポストカプセル、それは、つくば科学万博で投函された手紙等を21世紀最初の正月に配達するという企画である。
何か夢のある企画をということで上司から業務命令を受け途方に暮れていたところ、企画担当した郵政省の企画課長のところに思いもかけず初恋の女性から課長昇進祝いの葉書を頂いた事でこの企画を思いついたという。よほど嬉しかったのだろう。
企画の始まりは学生時代に初めて思いを寄せていた女性から、送られた手書きの葉書であった。
「初恋、消えかけた自分の記憶を鮮明にさせ淡くも切なくも、すり抜けようにも間違いなく自分自身が所有する記憶の断片」。
その一片を突然目の前に突きつけられたら、あなたはどうするだろうか?
しかし、人は記憶があるからこそ生きて行ける。ふと映画「ブレードランナー」の「レーチェル」のことを連想した(「BLADAE RUNNER」1991年。Deckard役:ハリソン・フォード主演。Rachael役:ショーン・ヤング(1984砂の惑星)、他にルトガー・ハウアー、ダリル・ハンナ他)。記憶は生命か?記憶と生命は車の両輪か?仮にそうであるならば努力してより良き記憶を・・・。
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自分の初恋はこんなイメージだった。
「恋ひ死なば 恋ひも死ねとか 吾妹子(わぎもこ)が吾家(わぎへ)の門を 過ぎて行くらむ」(万葉集)。恋しいあの娘がわが家の前を通る。ああ、おれに死ねと言っているようなものだ…。それは、あたかも学生時代の「思春期の教室風景」だった。片想いの相手が自分のクラスの廊下を通るとき、教室のなかでドキドキしていたあの時のような…。
「愛がすべて」(ビートルズ)なのである、と思った。
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15年前の葉書もしくは封書が悲喜こもごも様々な影響を残した。当時の新聞・雑誌、15年後の自分若しくは家族、あるいは恋人に宛てた手紙。
忘れかけた思い出にどこからともなく噴き出してくる切ない場面と感情の嵐に止めどもない夢の重圧。時には緩やかな圧迫と窒息に一気に襲われるような真実の優しさ。手紙は過去と現在を一瞬にして結びつける不思議な力を持っているのだろうか?
時代は変わり、ここのところコミュニケーションは電子メールばかりである今日此の頃である、ふと郷愁がよぎった。
「アイデアは人から出てくる」典型である。しかし、本当に人を好きにならないとああいう企画は出てこないと思う。
さあ、アシュラリスト達よ、思う存分人を好きになれ!
AEGIS シリーズ全編及び「ゼーレの眼」
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