19 アシュラリスト 愛と儚

愛とは「心」と「受ける」が合体してできた語と聞いたことがあります。

愛とは「心」と「受ける」、初めて聞きました。いいですね。

人の夢と書いて儚い(はかない)と読む、より好きです。

かつて日本に来た宣教師がキリスト教のLOVEの日本語訳を探していました。ぴったりの日本語が「慈悲」でした。ところがそれはすでに仏教用語で使われていました。しかたなく「愛」をLOVEの日本語訳にしたという話を聞いたことがあります。

どうも日本語の「愛」には性愛のイメージが含まれていて、私には違和感がありました。

慈悲という言葉の関連で、

高僧の言葉(名前は失念しました)で、

*

怨みは怨みによって消えず、

それあたかも火を紙で消すがごとく、

怨みは慈悲で消すことによって、

それはあたかも火を水で消すがごとくなる。

*

と含蓄のある言葉ですが、例えば、さんざん自分をオモチャにして財産とも持ち去った人間に対して、「歩み寄る人に安らぎを立ち去る人に幸福を」というのと同じくらいだ、と考えました。

人間関係にはその種類と奥の深さと千差万別でしょうから一言にくくることは無理な事です。

しかし、例え理想としても一般の人間がこのような心境に至るのは難儀でしょうね。

私の記憶では「慈悲」とは、「大声で共に泣く」意味もあると。人間は寄り添えばこそ、解答が見えてくるものかもしれません。なんにも出来なくても、苦悩している友人の手を握ってあげることでも一つの慈悲ではないかと思います。さらに寄り添い話を聞く、これなら私にも出来そうです。

また、仏語に登場する「愛」は、いい意味での愛ではなさそうですね。「喝愛」といい、のどが渇くと無性に水が欲しくなるようになんでも欲しがる愛欲に警告を発しています。

思い通りにならないものを思い通りにしようとするから苦しみが影のごとくつきまとうので、いっそのこと、「与えっぱなしの愛」のほうが、すっきりしますね。しかし、世間では一般にいう人間関係ではなく、私がこんなに尽くしたに、こんなにしてあげたのにという見返りを求める心理、言わば「人情関係」がその内面を大きく支配する嫌いが多く見受けられ、感じられるは私だけでしょうか?

ちなみに「与えっぱなしの愛」というのは私の記憶に間違いがなければ、瀬戸内寂聴さん(僧侶・作家)のエッセイ集に書かれていました。

自分の彼氏が親友に盗られたと訴えていた女性に対して諌めた言葉でした。

そのくだりはこうです。

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そしたら、彼が憎いの?

「いいえ、今でも心底、愛しています!しかし、親友が彼氏をとったのか、彼氏があなたを捨てて親友の元に走ったのか分かるの?」

私を捨てたとは考えたくありませんが、どちらか、分かりません・・・。

「いずれにしても彼はあなたではなく、あなたの親友を選んだのだから、そうさせてあげればいいのよ。あなたが心底、愛した人なら愛した人の自由にさせてあげるのも愛ね!私はそれを「与えっぱなしの愛」とよんでいるのよ。」


ゼーレの眼目

はかない(儚い)のハカは、仕上げようと予定した作業の目標量。それが手に入れられない、所期の結実のない意(広辞苑)

愛とは、感じて、体験するものである。

「愛とは量の多い方から少ない方に流れる。」

とある苛酷な地域担当の国際NGOスタッフの言葉だった。

今後、私も出来れば、愛を流すサイドに身を置きたいものである。

AEGIS シリーズ全編及び「ゼーレの眼」
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