7 アシュラリスト 直塗り(ジカヌリ)

魂が問いかける、「あんた、何を直塗りされたのさ!」

精神の襞に直塗りの夢。こびり付いて、離れない。許容愛。

どこまで許容するかではなく、如何に許容するかにかかっている、許容愛は一度動き出したら止まらない、止められない。止まればその時、許容愛は消滅する。人生は二度と同じ人生を歩めないのと同じくらい、他人の人生も歩めない。だから、早いうちに自分の人生を歩め!それまで諦めるな!

酷な時間、それでもゆっくり、丁寧に歩いてゆけば、どうにか乗り越えられるよ。土下座説法(戦法)許す女。

心の傷を消すことはできなくても、薄めていくことはできる。

世の中、捨てる神あれば拾う神あり、で、いつも拾う神の方がでかい。

現代の歩荷(ポッカ)の人々。

人は怒りを秘めても笑うことができる。いろいろ意見を丁寧に聞きながら生きる。落語家は「笑わせる腕になるまで泣く修業」という。

凛として清として生きる。心の内側にこびり付く何層ものカーテンを丁寧に広げてはたたむ、ところどころのしわにたたずむ傷を見つけては癒すのさ、それが愛、見つめるのは愛情。

他人を寄せ付けない本能、どこにでもいる煩悩。みんなで太鼓叩いて魂を解放しよう。

さながら浮沈空母のような魂。自分でエッジを探し、挑戦しないと姿を現さない魂。感じた時がピークで感じなくなった時はピークを過ぎている。魂はコピペることはできない。

恋愛では汗や恥をかくことはさることながら、最初は目に見えなかった壁が必ず立ちはだかる。それを乗り越えることが本来の「愛」の仕事だ。圧迫恋愛は疲れるよ、疲れるというよりは、結果的に残酷なのさ、恋愛は。

魂を表現したいから、想いを書くという日常が魂を自由に滑空させる。




ゼーレの眼目

歩荷(ポッカ) 現在ほど交通網、交通手段の発達していない昔、「歩荷」と呼ばれた人々が、背負子(しょいこ)という荷台を背負い、数キロあるいは数10キロにおよぶ荷物を徒歩で運んでいた。重い荷物を背負い、ひたすら山を越え、谷を越えるのもひとえに愛する家族にため、人を思い、自分の光で他者を照らす生き方こそ、人の道。

「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず」(徳川家康)

「幾山河越えさりゆかば さびしさの はてなむ国ぞ きょうも旅ゆく」(「白鳥の歌」:若山牧水)

人間の心には真実、自分が生きていると感じている人間の心には、取り去ることのできない寂寥(せきりょう:物寂しいこと)が棲んでいるものである。

行けども行けども進んでも尽きない道のように心の旅路は自分の生きている限り続いている。しかし、いつ果てることもないその寂寥にたち向かいながら歩き続ける。その心を牧水は読み上げたのである。ゴッホは「悲しみは生きている限り続くのだ」と言い残して、啄木は「呼吸(いき)すれば胸の中にて鳴る音あり凩(こがらし)よりもさびしきその音」(悲しき玩具)と言った。

牧水はさらに、こう続ける。

「いざゆかむ 行きてまだ見ぬ 山を見む このさびしさに 君は耐()うるや」と…。

ちなみに、「白鳥の歌」の冒頭部分、

「白鳥は悲しからずや 空の青 海の青にも 染まず ただよう」

実は、私の「AEGIS SWAN(楯を持つ白鳥)」の「SWAN」はここから、飛び立っている。




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