アシュラリスト プロローグ

私は思った、今までの人生、愛した女性、生きてきた空間。

振り返ってみれば阿修羅的だった、そう、そう思えば気も楽になってきた。

初めの阿修羅は不毛の戦いに明け暮れる、勝つことのない軍神。

しかし、仏法守護神に転換してから、その戦う対象が全く変わった。

そのエネルギーは「欺瞞による不作為から生じる不条理」に向けられていったのだ・・・。

これからも、アシュラリストの道を歩こう!!

私はそう思った。

二度と慰められない魂
神への到達を目指したキリストは、

極めて人間的なものと超人的なものの、

両面を持っていた。

キリストのこの2面性は私にとって依然から尽きぬ謎であった。

若い頃から、

私の悩み又喜びと悲しみは精神と肉体の間の飽くことのない苛烈な戦いから生まれてきた。

私の魂はその2つの力が衝突する戦場である。
ニコス・カザンザキス -「映画」キリストの最後の誘惑- より

シューシュポスに向き合う魂とイージス

生死を分けるほどの苦悩にさいなまれ、必死に自己へと旅立つ努力を続けたお蔭で、「自分に調和する」ということを学んだ。例え、たまたまそこに存在している、花や木でも温かい感情と優しい笑顔を見せてくれた。心が暗闇に充たされる時、自分の姿が見えてきた、優しい笑顔と共に。私はできる限り楽観主義で心の内側を充たし、知らぬ間に侵入してくる悲観主義を心の外側に追い出す作業をこつこつと真面目にしていただけなのだ。

もしかしたら人生とはその繰り返しかも知れない・・・。
神々が人間に置いていったものは「逆戻りできない時間」と「二度と慰められない魂」だけなのか?

「不幸な人間は一体どこまで不幸なのだろうか?(ドストエフスキー)」。人は精神の内側にいる自己とじっくりと対話すると悲劇的になるのかもしれない、たとえ二度と慰められない魂でも、二度と救われないわけではないと、私は思う。



ゼーレの眼目
痛みは友人、痛みは生きている証拠。
鳥は小枝から落ちても自分を憐れんだりはしない。


AEGIS シリーズ
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