AEGIS覚醒 SEELEの姿 少年の思い:僕のすべきこと 第5夜
「えっ?おばあちゃん、僕は交通事故で死んだの?」
少年はふとあることを思い出した。「そう言えば僕は、母ちゃんの誕生日にカーネーションを買うために、お年玉で貯めておいた中の500円玉を握って、花屋さんに走って行ったんだ。そして走りながら握っていた500円玉が手からするりと抜け落ち、あわてて500円玉を追いかけたら、道路に出てしまって車にぶつかったんだ…。なんとなく思い出してきたよ」。
少年は花屋に行くことは生まれて初めてだった。花を母に送ることは少年の中の秘密だった。少年は母の喜ぶ顔を見たかったのだ。もし母に花の買い方を聞いたら秘密ではなくなってしまう。しかし、どのように言って花を買えばいいのか、どのように母親にあげたらいいのか考えながら、花屋に向かった。それは大好きな母親のためにプレゼントするため少年にとっては大きなイベントだった。
しかし、ちょっとした不注意で少年は交通事故で絶命し、そのことに気が付かず、一度は現世に戻ったが、最愛の母親に別れを告げるチャンスを逃し、再び天国に舞い戻ってしまった。その後、母は自殺したのだ。母は子を思い、子は命と引き換えに真実を話した。それが最も苛酷な結果を生んだのだ。
少年は祖母に「母ちゃんには会えなかったけど、しかたないよ。トラックの運転手のおじさんが本当のことを言わないんだもの、目がよく見えないおばちゃんとそのお姉ちゃんがかわいそうだったから、僕は約束をやぶって見たことを正直に話してしまったんだ。約束を自分でやぶっちゃったのだからしかたないよね…、おばあちゃん。」少年は自分に言い聞かせるように母親への追慕の気持ちをけなげにもその小さな胸に押しつぶした。少年でありながら天晴れな決断であった。
ところで天晴れ(あっぱれ)とは胸のすくような快挙に送る褒め言葉だが、実は、「哀れ」という言葉と関係がある。うれしいにつけ、悲しいにつけ、心に感じる、しみじみとした思いを表す「あはれ」という古語がある。これを強く発音すると「あっぱれ」となり、中世以降、「立派だ」「見事」といった意味で使われるようになったという。それに対して、「あはれ」の「気の毒だ」「かわいそう」の意味を引き継いだのが「哀れ」だ。両方とも「あはれ」から生まれた兄弟なのである。
そして死を前にして独りっ子だった少年は実母を事故で失った優しい娘を「かりそめにも姉」と思いたかったのかもしれない。
もはや母親に会える手段はすべてなくなり、少年は諦念の中、祖母を見つめて言った。「母ちゃん、ひとりぼっちでかわいそう…」。祖母とそんな話をしているところ前方から、誰かが歩いて近づいてきた。少年にとっては懐かしく、そして信じられないことだった。奇跡が起きたのだ。そこには少年の母親が立っていた。少年は思わず「母ちゃん!!」と叫びながら、走り寄り母親の胸に飛び込んだ。切っても切れぬのが親子の絆、少年は天国で母親との再会を果たしたのだ。
少年を引導した見知らぬおじさんとは、阿弥陀如来(西方浄土にいる、人が死ぬときに現れ、死の苦しみを和らげる仏)の化身であり、昨年死去した祖母は観世音菩薩の化身でもあった。阿弥陀如来は不慮の事故で絶命した純真無垢の少年を一度は現世に戻し、母親に最後の別れを言わせてあげようと慈愛の配慮をした。しかし、母に会う前の少年の行動は予定されたものではなく、真実の少年の声を観世音菩薩が聞き入れ、祖母に化身することにより少年の苦悩を和らげたのだ。
そして少年の行動が僥倖(ぎょうこう)を産んだのだ。少年の母は、我が子に会いたい一心で自殺したことにより一度は地獄に落ちた。そして自分の命と引き換えにした少年の親孝行とひたむきな優しい行動のために少年は2度死んだ。2度とも利己的ではない仁愛による死だった。少年の心がけに免じて、阿弥陀如来は少年の母親にくもの糸をたらし、「陰徳あれば必ず陽報あり」と説きながら、母親はそれに引き上げられ地獄から、救われたのだ。
そして母は息子の手をとって、
「さあ、お父さんに会いに行きましょう!」
「えっ、本当!父ちゃんにも会えるの!」
その時の少年のくしゃくしゃの笑顔はまるで太陽のように明るく輝いていた。そして、小鳥のように母と息子の歓声はいつまでも辺りに響き渡っていた…。
第5夜おわり
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