スイッチが入るとき By AEGIS
昨日、会社関係の懇親会があった。
有楽町駅から、マリオンを抜け、ソニープラザの方向へと歩く、道沿いにはヘルメス、コーチといった店がある。
ここは、銀座の三笠会館だ。
ここは昼と夜の顔が違う、華やかな街だ。
妙な懐かしさと切なさを感じた。
しかし、ここには昔、来たことがあるよ…。
時間が早かったので、ソニープラザによって時間をつぶすことにした。
プラザ内ではユニセフ関連の「EYE SEE Ⅲ ~子どもたちが見たもの~」の写真展が行われていた。
そこに、メッセージ入力用の端末が設置されていたので、片思いの女性にメッセージを書いてみた。
どうして書いたのだろう?
そしてメッセージはソニーのHPに書き込まれた。
スイッチが入るとき、それは偶然ではなく、必要があってメッセンジャーが現れ、必要があってここにいる。
心のアンテナの感度を上げて、今日も生きていこう。
7年前、私はこんなことを書いていた。
ネパールに関して、
2001/06/02 日本に入った速報は、ネパール王国、ディペンドラ皇太子昨夜(1日夜(日本時間2日未明))、結婚に反対されビレンドラ国王を射殺、その後自分も自殺。
国王が勧める結婚に反対、皇太子には結婚したい女性がいたという。
と伝えました。
結果的にはビレンドラ・ビル・ビクラム・シャハ・デブ国王(55)夫妻を含む王族ら十数人が死亡し、国王夫妻の三人の子供、ディペンドラ皇太子(29)、ニラジャン王子(22)、シュルティ王女(24)も死亡しました。
ビレンドラ国王と王族は日本の皇族とも懇意にされていました。特にシュルティ王女は、日本の柔道が好きで、ネパールの宝石とも言われた美人の王女でした。
その事件が起きる約1カ月前の4月29日、日本の皇太子の要請でネパール王国よりディペンドラB.B.シャハ皇太子殿下が日本との友好親善のため初めて来日されました。政府レベルのレセプションの後、外務省枠とは別に民間レベルの"ネパール王国皇太子歓迎レセプション"(主催(社)日本ネパール協会・後援:外務省、宮内庁)が銀座・三笠会館で開催されました。
その三笠会館でのイベントに私は参加し、ディペンドラ皇太子を遠くから拝見し、優しそうな皇太子という印象を持ちました。
皇太子はSPに囲まれ、約20分後、会場を後にされましたが、その1カ月後、その惨事が起きたのです。国王一家全員が死亡したため、この事件は未だに真相は藪の中です。
その後、政権打倒の爆弾テロが相次ぎ、立憲君主制打倒を標ぼうする毛沢東主義派(マオイスト:ネパール共産党毛沢東主義派ゲリラ)は2001年6月1日に起きた国王一族射殺事件を機に、爆弾テロなど武装闘争を活発化、治安情勢は悪化の一途をたどっていきました。
そして、 2001年9月11日米国における「同時多発テロ事件」が発生したため、世界のメディアは米国に向いてしまいました。
外務省は、国際会議「アフガニスタン『平和の定着』東京会議~銃から鍬へ・元兵士の市民社会への復帰~」(DDR会議)を平成15年2月22日(土)、東京(帝国ホテル)において開催しました。その事前説明として、私は外務省主催の東京会議NGO説明会合(2/19:外務省別館)に参加しました。
そして外務省は、「平和のため登録(Register for Peace)」構想を提唱し、「平和の定着」に向けた支援としてDDR(Disarmament, Demobilization and Reintegration of the former combatants=元兵士の武装解除・動員解除・社会復帰)を実行するため外務省内にDDR準備室(仮称)を設けました。
ネパールも外務省のいう、その平和定着のため、平和のための登録が必要な国ではないかと思っています。
御存知の通り、ネパールはアジア、日本には馴染みの深い仏教の祖ゴータマ・ブッダが生誕した場所でもあります。
ゼーレの眼
ブッダの幼少時の名はシッダルタ。それは「すべての正義が成就する」という意味だと、学生の時のインド旅行の際の私のメモ帳に書いてあった。SWAN設立に大きな影響を与えた、ネパールのルンビニ、インドのブッダガヤへの旅は私の魂(ゼーレ)と生き方を大きく揺さぶり、ぶれることのない愛を考えさせてくれた。今から思えば、私にとって偶然ではなく必然だった旅だったと思う。
編集・文 栗城利光(SWAN)