8 過去は雨の夜に佇んでいた
ひとりの男がつぶやけば、数人の女が笑っていた。
男はなんのためらいもなく、歩いてしまった。
彼は自分自身に近づきたかった。
自分であって自分ではない。一体自分は何なんだと…。
年を重ねるたび男は自分から遠ざかって行くことにひとつの苦痛を感じるようになった。
「パパ!ゾウさんの背中って大きいネー。」
数々のトラブルや、過ちがひとつの映像を創りだす。
もっとましな思い出はないのか!
俺の思い出はこんなものばかりだったのか!
思い出されるのは悪夢、呼び覚まされるのが誤解、悪夢と誤解がひとつになって真実が浮かんでくる。
真実はいつも冷たい。
その冷たい顔を見ていると、最近、安心感みたいものを憶える。
そんな男はそうざらにはいないもんだ。
「パパ!ゾウさんの背中ってあったかいネー。」
「パパ!そんな顔して何考えているの?」
「悩み事があったらナツミに言って!相談にのってあげるから…。」
若いうちにやるべきだった。
若いうちに泣くべきだった。
もっともっと泣くべきだった。
雨の重さで過去が遠くなっていく。
ゼーレの眼
SEELEは独身です。昔、インドで象の背中に乗った経験があります。「ナツミ」という架空の少女の視線からものを見ました。一歩間違えば、父親。そして二度と会えない彼女(ひと)。あの時、もし間違いが起きていたら、「ナツミ」は俺の横にいたかもしれません。
「負けないで もう少し 最後まで 走り抜けて…」(『負けないで』「ZARD」の坂井泉水さん:享年40)。
「夢は砕けて夢と知り、愛は破れて愛と知り、時は流れて時と知り、友は別れて友と知り…」(作詞家、阿久悠さん:享年70)。
俺は、学生の時にインドに行った。その時ある寺の前を通りすぎたとき、象が鎖でつながれていた。バクシーシ(感謝を込めて差し出すお金のこと:自分が現在幸福だったらその幸福を他人にも分け与えるという意味であることを記憶している)を1ルピーだろうか、象の番人に差し出したら、その象に乗せてくれた。象は番人の合図により、前足を曲げ、私はそこに足をかけて、像の耳を掴み、その背中にまたがった。番人は私が象にまたがったことを確認するや否や、象に俺の訳の分からない言葉をかけ、象は立ち上がった。思ったより視線が高くなり、バランスが悪い、微妙に左右に動くので、俺は落ちないように無意味な緊張を強いられた。象の頭から見る視線は普段の生活では感じられない経験と感覚であった。
皆さんにとっては特に取るに足りないことと思われるかも知れないが、現実その場では2つの選択はあった、今まで俺は象を動物園の檻の中でしか見たことがなく、珍しかったので、写真を撮って、その場を通りすぎるか、或いは、象の背中に乗せてもらうかということであった。俺は後者を選んだ。旅をするともう何度も来ることがないからといい、「体験」について欲張りになっているのかも知れない。それが日常と非日常の差かもしれない。しかし、僅かながら選択できる日常・非日常より、選択がすこぶる困難な「人生」についてはどうだろう。思いもよらぬ選択により、苦悩を呼び込んでしまったとき、人に残されたオプションは「泣く」事だけなのか。 「泣く」事は苦悩のリセットとその浄化ではなく、現在自分自身の苦悩を抱えた人生の継続の宣言なのである…、と私には思えてならないのだが。それは象の背中の不安定さに似た、人生そのものの浮游感覚のように。
俺にはそれぞれの人が等しく、幸福と苦悩をバランス良く引きずって生きているように思える。幸福だけでも、苦悩だけでも人生はうまくやっていけない。又そのどちらかのみに偏ることも決してない。夜の暗やみをけ散らす太陽は必ず、顔を見せる。そういうことであるならば、思い切り大声で気の済むまで泣けばいいのである。恥ずかしがることはない、これも貴方の人生の継続の一部なのだから・・・。