『魂の法則』あとがき、作者のことば:

見返りを求めない無条件の愛の趣旨通り、本書が、全ての人に無私の志で届いてくれることを切に願う。       そのため、内容を変更せず営利を目的にしないという条件で、本書を自由に頒布し、                   現在利用可能な全てのメディアによって、全体あるいは一部を随意に複製することをこの場で許可し、         その活動を後押しするものとする。

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僕は、長い間いつも多くの疑問を抱えてきた。

それらは、存在の根源に関するものだった。いつも、自分の人生の目的や、皆の存在理由を知りたがっていた。

 

「僕は何者か」「なぜ存在しているのか」「他者はなぜ存在するのか」「僕らはここで何をしているのか」「何か特別なことをするためにやって来たのか」「人はなぜ生まれ、死ぬのだろうか」「僕らはどこからやって来て、どこに向かうのか」「死後にも、何かがあるのだろうか」

 

そして、それでおしまいではなかった。時には、世界中で目にするおびただしい不正に対する答えを求めた。

 

「人生は、なぜこれほど不公平なのか」「誰にも危害を加えたことのない小さな子どもが、生まれた時から誰からも愛されずに飢餓・戦争・貧困・病気・搾取・虐待で残酷なまでに苦しむその一方で、健康に生まれつき、幸せな環境で愛される子どもがいるのはどうしてか」「なぜ病気になる人とならない人がいるのか」「長生きする人がいる一方で、生まれた途端に死んでしまう人がいるのはなぜか」「苦悩と悪意は何のためなのか」「善人と悪人、幸福な人と不幸な人がいるのはなぜか」「僕はどうしてこの家族の下に生まれ、他の家ではなかったのか」「どうして他の人ではなく、この僕に、こんな災難が降りかかるのか」「他の人に起こる不幸が、自分に起こらないのはなぜか」「これらの違いは一体何によるのだろうか」

 

また、ある時は感情面でのものだった。

 

「なぜ僕は幸せでないのか」「なぜ幸せになりたいのか」「どうしたら幸せになれるのか」「僕を幸せにしてくれる愛の対象を見つけられるだろうか」「愛とは何で、感情とは何だろう」「この気持ちは何なのか」「愛す価値があるのか」「愛す方が苦しむのか、それとも愛さない方だろうか」

 

おそらく君も、人生のある時点で、同じような質問をしたことがあるだろうし、今でも時々そのように考えることがあるのではないだろうか。

 

でも僕たちは、日常生活の一日一日に追われているので、意識してこのような問題を提起する機会も、答えを見つけようと努力する時間も余りない。僕たちには、色んな義務や気を逸らされる雑事が多過ぎるのだ。そして、答えは簡単には見つからないし、探求すると自分が不安になるので、疑問は心の片隅に押し込めておくのだ。そうすれば、苦しみが軽減されるとでも思うのかもしれない。

これらの疑問の一つ一つに答えはあるのだろうかありきたりな答えを求めているのではなく、本当のことが知りたいんだ。真実は存在するのか何が真実なのだろう。どこに真理を求めるべきか。そしてそれが本物だと、どうして分かるのだろうか。

 

僕は、常に懐疑的で疑い深い人間だったが、探求心も旺盛だった。いつも自分自身で物事を確かめるのが好きだった。だから、小さい頃から教えられた宗教・哲学・科学の中に答えを見出そうと、ずっと長い間探し求めてきたのだと自信を持って言える

 

そしてどの分野にも、世の中の理解が深まる独自の宇宙観があったが、自分の現実をありのままに説明するには、宗教にも科学にも限界があるように思えた。いつも現実からかけ離れた、中途半端で矛盾し合う答えしか得られずに、僕の疑問が解消することはなかった。深く追求しようとどんなに努力を重ねても、最後には破ることのできない壁質問を続ける気が損なわれてしまう最終回答に突き当たった。

 

宗教から得られた最終回答は、「神の御心です。神のみが知るのです。私たちには計り知れません」というものだった。つまり、人の生まれ出る環境にどうして優劣があるのかや、病気になる人とならない人がいることや、寿命の長さの違いなどは、僕たちには理解できないということだ。死後に起きることや、他でもなくこの家族下に生まれた訳や、なぜこんな世界なのかとか、神がこの世の不正を許容する理由などは、僕たちには、到底理解できないということなのだ。

 

そして、僕が彼らに「悪いけれど、その答えは役に立たないよ。僕の質問に答えてくれていないのだから」と言うと、最初のグループの人なら、「それは、信仰心がないからだよ。信仰心さえあれば、知る必要なんかないよ」と言う。

つまり、君が存在するに足る理由はないし、生きるに値する特別な目的もないということだ。もし概ね恵まれた環境の下に生まれたのだとしたら、それは偶然だ。生まれつき病気だったり健康なのも、どの家族に生まれるかや寿命の長短なども、偶然だ。科学的には、生まれる以前の生や死後の生の存在などは証明できない。科学的には、神が存在することも証明できない、などなど。

 

大抵の人は、このように教わったことを真に受けているので、誰かと話をしても、宗教を信じている人であれば、概ね、「神の御心です。神のみが知るのです。私たちには計り知れません」と答えるだろう。

 

一方、科学を信奉する科学者の立場を取る人たちは、宗教を信じるグループよりも知識があると信じ込んでいて、「それは偶然の賜物だ」まは「科学的には証明できない」と答えるだろう。

 

僕にこんな風に答える第三のグループの人たちもいた「さあ、知らないな。君の質問に対する答えが何かは分からない。でも、そういうことを自問するのにも、答えるのにも興味がないんだ」

 

そして、僕が彼らに「悪いけれど、その答えは役に立たないよ。僕の質問に答えてくれていないのだから」と言うと、最初のグループの人なら、「それは、信仰心がないからだよ。信仰心さえあれば、知る必要なんかないよ」と言う。

 

二番目のグループなら「君には必要な知識が欠けてるからね。科学は答えをくれるさ。それが僕の言うところの『科学では証明できないってことが、科学的に証明されている』ことなんだよ」と返答する。

 

第三グループは、「払わなければならないローンがあるし、食わせないとならない家族がいるし、分割払いの車がある。週末には旅行に行くことになっているし、もう充分忙しいんだから、こんなことでこれ以上僕を煩わせないでくれよ」と言う。

 

最初のグループには、僕自身の疑問に答えることを放棄することなどできないと答えよう。放棄できるとしたら、自分の意志に背くことになるし、僕にはそうする気がないからだ

 

第二グループには、知識の欠如によるものではないと答えたい。そのような知識は学んだ。僕は化学博士だし、物事の探求に限界を設ける要がある、という結論に達したことは一度もない。計測する道具がないからといって、踏み込めない分野があるとは思わない。僕には僕自身がいるし、自分が自分の計器となればいい。僕は、自分が知覚したことは、精密な計器で測定できたも同様に見なしているで、他者もそれぞれが知器であることを認めよう。だから、僕自身の計器で感知できないことがあったら、他の人たちに、その人たちの感知器では何を捉えたのかを聞いて、役に立つのか見てみようと思う