*霊的な観点から見ると、霊性を職業化するのは正しくない、と言われるのですか?
その通り、正しいことではない。君の言うところの霊性を職業化したことによって、宗教や聖職者が存続することになったのだ。聖職者たちは、霊的な仕事らしきもの(儀式や崇拝に時間を割くことは霊的に無駄なことなので、実際には仕事とも呼べないが)をすることで世俗的な仕事を免れて、自分たちで稼げないお金を信者や信徒から貰って食べていく必要があると人びとに思い込ませ、彼ら自身もその気になってしまった。
繰り返すが、霊的な仕事に専念できるように実際的な仕事を免除されることがあるなど、誰も信じてはならない。
*カトリック教会は、イエスやその使徒たちの例を見習ってそうしなければならない、と理屈をつけることでしょう。
一体どのような手本があるというのだ?イエスは大工の息子であり、一緒に住んでいる間は、父親の仕事場で働いていた。多忙な使命に取り組むと大工をする時間がなくなったのは事実だが、霊的なことで一度きりともお金を取ったことはないし、養ってほしいと頼んだこともない。
彼の使徒たちも、そんなことはしたことがない。各々が持っている物を提供し、家族や職業上の義務を投げ出した者はおらず、世俗的な仕事と霊性とを両立させていた。注目すべきは、使徒の中に一人としてユダヤ教の司祭がいなかったことだ。当時働いていなかったのは、ユダヤ教の聖職者だけだったのだ。
使徒たちは生存中、教会を組織することも、聖職者を名のることも、扶養してほしいと人に頼んだことも、一度もなかった。ただ質素に暮らし、持っている物を分かち合っていた。
イエスと使徒たちがユダヤ教の僧侶たちにそれほど睨まれたのは、彼らの宣教によって、ユダヤの聖職階層に最も収入をもたらす商売であった、動物の生贄のために寺院に行く人の数が随分減ってしまったからだ。
*この場合はカトリックのことですが、教会は何を間違って、創始者たちが行ったことや宣教したこととは裏腹に、ユダヤ教会と同じように成り果ててしまったのでしょうか?
すでに話してあるが、イエスもその使徒たちも、教会など一つとして設立していないし、そうする意図もなかった。そのような機関を創り上げたのは、先駆者たちが伝えてくれたメッセージを悪用した、後からやって来た者たちである。
君もまるで教会に独自の命があるかのような質問の仕方をするが、それを見ても、君たちが宗教機関というものをいかに重要視しているのかが伺える。実際には、教会というものは存在していないのだ。教会独自の意志も良心も存在しないのだから。それゆえ、教会が善を成すこともなければ、悪を成すこともない。それは、ただ、特定の人間によって組織され、運営されている構造上の枠組みに過ぎない。内部の人びとは時代と共に移り変わるが、幸いなことに人の一生は短いので、せいぜい何十年かしか権力にはしがみついていられない。
だから、違う質問をしたらどうか。人間はどうして、霊的な成長に役立てるために授けられた真の霊性のメッセージを、それと正反対のもの、つまり、自分が隷属させられるドグマに変えてしまったのだろうかと、質問してみたらどうか。そのような教義は、人に自己の意志と自由を放棄させ、搾取や狂信、格差を増長している。
教会は、自己のエゴに流されてしまった者たちによって企てられ、組織され、歴史において存続してきた。実のところ、それは、霊性を求める人びとの潮流によって手放さざるを得なくなった指揮権を力づくで奪い返して、以前の抑圧形態を再度導入したものに過ぎず、徐々にコントロールに成功したのだ。
*霊性を求める人びとの潮流によって手放さざるを得なくなった指揮権を力づくで奪い返して、以前の抑圧形態を再度導入したものに過ぎない、とはどういう意味ですか?
つまり、イエスの死後、継承者たちがその教えをあらゆる場所で普及させることに尽力したので、イエスの無条件の愛のメッセージは急激な広がりを見せた。そのうちに、その無条件の愛のメッセージに賛同する人びとの数も、飛躍的に増えていった。イエスの教えは、人間同士の平等や兄弟愛を訴えていたので、それによって自分たちのやり口がバレてしまうと思った時の権力者たちは脅威を感じ、幾人ものローマ皇帝が大規模な迫害を行った。しかし大虐殺にもかかわらず、キリスト教徒と呼ばれることになった人たちの数は、止まることなく増え続けた。そこで、この流れを外圧で撲滅するのが不可能だと見た権力者たちは、内部に浸入することで舵取りをして、進路を変えてやろうと決意したのだ。
この新しい戦略で最も際立つものの中に、コンスタンティヌス帝の治世のものがある。彼は自らキリスト教に改宗したとして、ローマ帝国全体の強制的な改宗を布告したのである。しかし、これによって、すでに時の経過と共に作り変えられていたキリスト教は、それ以後は、より一層改変されてしまった。もう貧困者や奴隷の信仰であってはならず、富と権力と相容れるものである必要があったが、そうではなかったので、丸ごと改造されてしまったのである。
このように、我々は、再び人類の諸悪の根源に行き着くことになる。一番の問題は、人間の利己心なのである。道徳の権威者だと自称したこれらの者は、そういう利己的な魂であり、教会を維持して強大にするのが大事だと人びとに思わせ、神が喜ぶからと、そのために命を捧げたり他者の命を奪うことを奨励したのだ。だがそれは、霊性の面で進化の乏しい人びとの無知、怖れ、狂信だけに支えられる大嘘である。
本当のことを知りなさい。君たちが教会と呼ぶ枠組みは、神にとっても霊的世界にとっても、何の意味もなさない。霊界にとって大切なのは、霊的な生命を有するものだけなのだ。一言で言えば、神にとって意義があるのは人間であり、教会ではない。それゆえ、宗教的または霊的な組織を拡大しようと努めて、人生を無駄にしてはならない。またそこに富を貯えたり、信者の数を増やそうとしてはならない。これらのことは、霊的な視点からは無意味な努力であり、君たちの進化にとっても全く役に立たない。
それよりも、自分たちの心の中のエゴを根絶して、愛の感情を発達させるように努めなさい。それだけが唯一、奮闘する甲斐のあることで、霊的な進化の階段を昇らせてくれるものだ。