*先ほど、霊性と宗教とを履き違える人がいると言われましたが、霊性と宗教とはどう違いますか?同じことだと思っている人がいます。
同じではないよ。霊性は、魂独自の資質と能力で、回を追うごとに強く進化の後押しをしてくれる。進化とは、自由に愛する能力を発達させていくことを意味し、そうすることによって、感情、感性、意識、理解、叡智、幸福の、より高度な段階へと徐々に達していけるのだ。それは、いろいろな理由があるが、自分や自分を取り巻くものの存在意義を知り、自分と他の創造物たちや神との絆を深め、自己を内包する宇宙の仕組みを、それを司る法則も含めて、知るためである。
宗教とは人間が創った階層構造を持つ組織で、一連の教義上の信念の周りにしがみついている。これらの信念は、的を得ていようがいまいと議論が認められず、権威者の見解次第である。つまり、その階層構造で一番権威を持つ者に、皆が信じるにふさわしい真の信仰を決める権力があるのだ。
*隣人愛は、大概の一神教の基本を成すものですし、神を信じる人たちも世界には沢山いるのに、どうして、こんなにもエゴだらけで愛のない世の中なのでしょうか?
そのことは前にも話した筈だ。多くの宗教では、愛という言葉は死語に等しく、人を惹き付ける呼び水として使われているだけで、実践して見せることも、手本を示すこともない。しかも、愛は、それより重要視されている他の多くの規則や信仰の陰に、隠されてしまった。だが、これらの規則や信仰は、愛そのものやや「魂の法則」と矛盾するものなの だ。たとえば、議論の余地を与えることなく、一連の教義を信者に押しつける者は、信仰の自由を妨げるので、自由意志の法則に違反する。
宗教は、人間のエゴと結びついた現象である。少数の者の利己的な便宜によって、人の霊性が操られているからだ。過去の時代においては、支配的な宗教の権威者たちが自らの信条を力づくで課し、それに従わなかった者たちは抹殺された。彼らの権力は非常に強かったので、異議を唱えることは不可能だったし、しかもそれは命懸けであった。現在では勢力が弱まったとはいえ、宗教はまだ多くの国々で、人の自由を弾圧するくびきとなっている。
*人が愛に向かって進化する上で、宗教が障害になると言われるのですか?
愛に向けて進化する上で障害になるのは、人間のエゴであると言いたいのだ。エゴは大変巧妙に人の霊性に忍び込み、それを歪めて操作をし、その霊性とエゴが混ざって出来上がったものから、宗教が生じる。
多くの宗教の起点が、真の霊的な教えを説いて人びとの心に浸透させることができた、高次の存在たちの活動にあったことは話したろう。だがその教えは時間の経過と共に、目立ちたがりで野心家の未進化の魂たちによって、彼らの権力と富への野望を満たすために、偽造されて歪曲されてしまった。本物の「魂の法則」は、エゴによって突き動かされたそのような者たちの影響を被り、儀式や式典で飾り立てられ見せかけの霊性で覆われた、「エゴの諸法」に置き換えられてしまった。
*本物の「魂の法則」が「エゴの諸法」に置き換えられてしまった例を示してください。
そうだね、君たちの世界では、「霊的裁きの法則」を利己的な「漏斗の法則」と入れ替えてしまった。つまり、自分たちには許容間口を広くし、他の者には狭くしているのだ。
人は、自分が得することは公平だと思い、他者を得させることは不公平だと見なす。同じことでも、それをするのが自分自身なのか、それとも他者なのかによって、違う目で見る。君たち自身の利己的な言動は正当化するくせに、他人であれば、同じことをしていても熱烈な批判をする。そして、影響力の強い者の規則が、他の者たちに強要される羽目になる。
たとえば通常権力を握っている者たちは、法外な給料、不相応な年金、税金の免除など、他の者たちが持たない特権を享受しているが、その一方で、他の市民にはずっと厳しい規則を守るように強いている。
君たちは「愛の法則」と「富と成功とを充足させる利己的な法則」とを入れ替えてしまったために、個人の興味や物的な願望を満たして、成功や名声、気紛れで便利な快適な生活を手に入れようとすることが良いことだと理解し、そのためには仲間を苦しませようが意に介さない。そして反対に、そのようなものがほんの少しでも奪われてしまうと悪いことだと思うのだが、それは違うのだ。
きちんと理解してさえすれば、良いことをするというのは「愛の法則」と調和した行動をとるということで、悪いことをするとは「愛の法則」と反する行為、一般的には苦悩や不幸を引き起こすエゴ的な行為、を意味するとわかる。
さらに「自由意志の法則」は、「強者の法則」に置き換えられた。それはつまり、一番強い者が一番弱い者に自分の好き勝手を押しつけている、ということである。
だから、君たちの世界では、発言者が重視されるのだ。その人がどういう役職、タイトル、身分なのかが見られ、話の真偽は問いただされない。質素な者は本当のことを話しても聞き入れられず、権力者、有名人、成功者、その他人間が発明した地位やタイトルに昇りつめた者は、何を言おうと一目置いてもらえるので、好き勝手が言える。そのような有名人の多くが、一般人を操り狂信的にさせる偽りのメッセージを発信しているのだが、なおかつ、他の人びとよりも優れていると見なされている。
「強者の法則」が幅を利かせ「自由意志の法則」が軽視されているのは、宗教の権威者に関しても明らかだ。自らを霊的に進化していると見なす者たちが、実は最も不寛容で理解がなく、頑なで、規則や儀式を厳密に守ることだけに熱心だというのは、なんたることか!そして従わない者を強く非難し、他者の行為や行動を安易に告発するのだが、自身の利己的な悪癖を直すことには力を注がない。霊的な美徳とは、他者の考えに対する寛容と理解ではなかったのかね?彼らのどこにその美徳があるのかね?