*望みの人を手に入れたらどうなるのですか?二人とも幸せになるのでしょうか?
いや、しばらくの間は望みのものを獲得できたという満足を感じているが、現実が期待したほどのものでなかったと見るや、大きな失望を味わい、急速にその関係に幻滅していく。以前は神や女神のように思えた、今やパートナーとなった相手は、ごくふつうの平凡な人として目に映るので、次第に興味を失っていく。
その関係が上手くいかないのを相手のせいにして責めるが、本当は、幻想だけで愛の感情がなかったことが不満の原因なのだ。それなのに、他の人が自分のパートナーに関心を寄せていると思うと、今度は所有欲を出す。それは、相手を苦労して獲得したトロフィーだと見なし、自分に所属していると考えているからだ。
そうなると、自分たちの関係が幸福でないにもかかわらず、相手がそこを抜け出して別の場所で幸せになることも許さないので、自分が生きることもできず、相手を生かすこともできない。
それはまるで、親に欲しいおもちゃを買ってもらえないと地団太を踏むのに、手に入れるとちょっと遊んだだけで飽きてしまう、我がままな子どものようだ。別の子どもがそのおもちゃを欲しがると、また興味を示すのだが、それはもう一度惹かれたからではなく、自分の所有物だと見なしているものを他人に譲りたくないからなのである。
*恋愛感情の強迫観念はどう克服したらいいですか?
能動的な執着心、つまり愛には所有権がつきものだという概念を克服する必要がある。自分が愛しても相手がそうでないのなら、無理やりそれを変えてみせようとせずに、その現実を受け容れるべきである。人の感情とは自由なものであり、強要はできないし、またするべきではない。そうしても自分と相手を苦しめるだけだ。
自己抑制的な人に強迫観念がある場合は、臆病と抑圧に打ち克ち、拒否を怖れて自分の考えを隠してしまわずに、常に正直に気持ちを表明する勇気を持つことで乗り越えることができる。そうすれば、自己の交友関係も本物となり、好きな人に対して幻想や妄想を抱かずに済む。相手に応えてもらえれば、その人との関係も自然なものとなるし、嘘をついたり裏工作をする必要もない。また、相手にその気がなくても、つき合えたかもしれないのにチャレンジしなかったせいで駄目だったのではないか、という考えに囚われることなく、心穏やかに新たなページを開くことができる。
―恋愛における罪悪感について
これは人が、感じていない愛情を持とうと無理をしたり、自分の気持ちを抑圧するなどして、自分自身の感情の自由を強要した場合に起こる罪悪感である。受動的な執着心を患う人によく見られるものだ。恋愛における罪悪感が起こるケースの一例としては、カップルの一方が他方に恋愛感情を抱いていないことに気づいたものの、一緒になって年月も経ってしまったために、相手を愛して関係を維持することを義務付けられていると思う場合である。つまり、そうするのが自分の義務だと思って、伴侶に対してパートナーへの愛を覚えようと努めるのである。それには、相手を性的に満足させる、世話を焼く、一緒にいる時間を作るなど、パートナーに対してすべきであるとされる行為が含まれる。こういうことを全部するのは、相手を愛していないことに罪悪感を抱いているからで、自分に愛がないことを何かで埋め合わせすべきだと思い込んでいるからだ。
恋愛における罪悪感が起こる別のケースは、ある人に恋をしたものの、同時に自分自身の道徳観から見て、それを不適切であると判断した場合である。その例としては、すでにパートナーがいる人を愛してしまった場合、または当人にパートナーがいる場合だ。この場合は、愛するべきではない「不適切」な人を愛してしまったことで罪悪感を抱き、不道徳、あるいは禁断だと見なすその恋心を抑圧したり、断念したりする。こうして自分自身で不幸になる道を選ぶ。
*すでにパートナーがいるのに、別の人に恋をしてしまった場合は、一体どうするべきなのでしょうか?
その人が好きなようにすればいいのだ。だが、幸せになりたいのであれば、感情のために闘うべきである。
*それは、それ以前の関係を切って、愛する人と一緒になるべきだという意味ですか?
愛のない関係は、愛が欠如しているという時点で、すでに壊れているのだ。ただそれを認めて、それに従って行動すればよい。前にも話したろう。伴侶を愛していないのであれば、正直になって、それを伝える勇気を持つことだ。そうしてから、正式にカップルの関係を終了させることだ。これは、他の人を愛しているか否かとは別問題だ。
ましてや別の人を愛しているのであれば、自分の本当の気持ちを認めて、愛している人に伝え、相手もそう想ってくれているのかを見てみればよい。そして、相手がどういう決断をしようと、それを受け容れることだ。二人が相思相愛であり、カップルとして一緒になる意思があるのなら、誰にも何にもそれを妨げられないし、妨害すべきでもない。まして、罪悪感を持つ必要などない。霊的には罪悪感を持つ理由は何もないからだ。