*罪悪感を弄ぶ、とはどういう意味でしょう。
自分の不快感を他人のせいにする、ということだ。
*弄ばれる人を助けるためにはどうしたらいいでしょうか。
その人は最初に、その問題、つまり信条とする観念によって自分の意志と感情が実質的に失われてしまったこと、を自覚する必要がある。
これは、それ自体がもう凄い進歩だ。それというのも、普通はこのような人は、自分が他者より上だと思っていて、自分の宗派で信用のない人の言うことなどを聞こうとしないからだ。それは、教会が、規則に従わない者は「罪人」で信じてはならない悪い仲間だと、思い込ませたせいでもある。
次に、内面を見つめる努力をし始める必要がある。本当にしたいと思ってすることは何か、したいのに規則で禁じられてしないことは何か、したくないのに規則に強いられてすることは何か、などを自覚することから始める。
その次のステップは、自由意志という自己の意志力を行使し始めることだ。つまり、定められた規則に逆らう必要があろうと、自分の気持ちに従って行動し始めるのだ。
*これまでの長い説明からは、全ての宗教は茶番であり、神の御心など全く反映されていない、と結論づけるべきでしょうか。
そこまで極端なのは良くない。
宗教の問題は、霊的に高次な教えを幾つか取り入れてはいても、全てを「神の御言葉」だと、一連の信念や規則をパッケージのように、論拠のないまま教義として受容することを信者に要請することだ。
そこには思考の自由も、本当に心に響くことを選ぶ自由も、自分にとって嘘や的外れなことを除外する自由も、何を信じ何を信じないかを選択する自由もない。
宗教の指導者たちは、随分長い間、隣人愛などの高次の教えを呼び水として、人を惹き付けてきた。魂の成長を阻む、その他の馬鹿げた付け足しの規則には、関心がない人がいたからだ。信徒になり、教会の権力者の叱責を怖れて、「神の御言葉」だとされるものを問いただす勇気のないまま、自称「神の代理人」に導かれてゆくと、少しずつ自分の意志を放棄するようになり、いつしか古書の規則に従って生きるようになるのだ。
だが、それらの規則は、自己体験に充分な意味づけと満足のゆく答えを与えてくれるには時代遅れなので、信者はコルセットをきつく締められて、自由な自己表現を阻まれてしまう。意志を放棄をすると、神の御言葉の代弁者として勝手に立候補した者の意のままになるので、狂信に向かって進むのだ。
現存するほとんど全ての宗教・哲学・イデオロギーには、嘘に混じって真実がある。自分の心が真実だと見なし進化に役立ちそうなものを、こっちから少し、あっちからも少し、と選び取って、自分自身の真実を見つけていくことは、各人の仕事なのだ。
*困難な状況にいる時に、生身の人間を信頼して助言がもらえないのであれば、その方法にはリスクがありはしませんか。
霊的な真相の広い知識を有し、多くの転生と内面改善の努力によって愛の能力をさらに発達させたために、霊性において他者を導いて助言できる人が君たちの中にいることは確かだ。
でも、それらの人は仰々しいやり方を取らない。司教や聖人だなどと自分で名乗ったりはしないし、特別な衣装をまとうこともない。
彼らは表面的には普通の生活を送っているが、内面を改善したいという強い意志と、他者を助けたいという強い思いがある。自己顕示も目立ちもせずに、無私で行動し、手本となって教える。そして彼らとの比較 によって、道徳性がそれほど高くないことが明らかになってしまった者たちからの、多大な侮辱と中傷とに耐えなくてはならないのだ。
霊的世界からの影響は、無神論者であろうと不可知論者であろうと別の宗派の信者であろうと、君たち全員の一人ひとりに感じ取られるものだ。だが、自分自身で決断するようにと、それはとても精妙になされるのだ。先ず一人ひとりが、それぞれの最良のガイドである良心の声を聴き、それから進みたい道を選び取るのだ。