*それでは、司祭の前での最期の告解が罪を緩和すると考えられていることに関しては...

肉体を離脱した後の魂の行方は、生存中の行為でのみ決まるのだが、進化し改善する機会はいつでもあるので、そ決意した瞬間から「救われる」チャンスある。だが、それは一朝一夕にはなされず、魂のからの変化を伴うものなので、反省し自覚して、否定的な態度を修正する時間が必要となる。

また、霊的な負債や「愛の法則」に反する行為を清算するためには、自分の罪業を修復しなければならず、これには強い意志と時間が必要とされる。

このことから、司祭によって最期の瞬間に免罪されても、肉体の死後の魂の行方を変えることにはならないだろうと推察できるだろう

 

*しつこくて申し訳ないですが、キリスト教徒と信者のみが救われるという信心に関しては、イエス自身が「わたしを信じる者には永遠の命が与えられる」と言って、救済されるのは信奉者だという信仰のきっかけを作ったのではないですか。

イエスはそういう意味で言ったのではない。

彼は、各人に霊的変革を起こさせる秘訣を教え、命は永遠であり、それぞれが自らの運命の創作家であることを自覚させたのだ。現在の言葉に置き換えるのなら、「わたしの言うことと教えを信じる者は、命が 永遠であることと、『救済』(進化)本人次第で、その人自身が自らの運命の担い手であることを自覚できるだろう」となる

 

*では、キリストの信徒だけが永遠の命を手にするという信心は、何に由来するのでしょう。

イエスが言ったことが誤って解釈されてしまったためと、教会がさらそれに、「教会の外に救いはない」と付け加えて改変してしまったためだ。

この場合ではキリスト教徒のことだが、一般的に、特定の宗派の信者のみが救われるという信仰は、その宗派の首長自身の考えに過ぎず、信徒の忠誠を確保するために利用される謳い文句の一つに過ぎない。もっと証拠が欲しいのかね?「教会の外に救いはない」というのはラテン語では“extra Ecclesiam nulla salus” と言うのだが、これは、イエスが地上に現れてから千余年も経った、12151216年に開催された第4ラテラン公会議で、聖キプリアヌスが最初に発言したことを、教義に取り入れたものなのだ。

 

*でも、カトリックの信者の多くが、そう確信している筈ですよ。つまり、キリスト教徒だけが永遠の命を手にできるのであり、善い信者であり救済されるためには、教会の規則に従わなくてはならない、ということですが。

いいかね、カトリック教会や他の多くの宗教が、善人とは従順であることに等しい、と君たちに信じ込ませたのだ。特に、教会の規則に従順になることだと思い込ませ、意のままに信者を扱えるようにしたのだ。

しかし、慈悲深いと従順なとは全く異なることだ。規則に従順で社会的に表面上は情け深い人であっても、個人的には我欲に完全支配された真の「悪魔」であるかもしれないのだ。規則や儀式をひどく愛好したのに隣人を全く愛そうとしなかったパリサイ人を、イエス自身も「白く塗った墓」と評し、そういう偽善を批判した。

反対に、正直者で偽善を嫌う善人なのに、決められた規則に従わないがために人から良く思われない者も沢山いる。そういう正直で誠実な人がいると、そうでない者との違いが歴然となるので、危険で蔑むべきだと見なされるのだ。

ここにイエスの手本がある。イエスはユダヤ教会の権威者の命令には従順ではなく、勇敢で、自己の霊的な信念に首尾一貫していた。自分の考えを公に布教すれば山ほど問題を引き起こすと知っていたが、暴力を 用いず真実と愛の力で、彼を黙らせようとした輩に立ち向かったのだ。多くの人もこれに追随した。歴史上には、支配者に「従順」でなかったために、ローマの競技場でライオンに貪られたり、異端や黒魔術の宣告を受けて焚き火で焼かれるなど、死に至る拷問を受けた正直者や善人の事例は山ほどある。しかしそれでも、彼らは自由で愛すことができたのだから、幸せ者だと見なされるべきだ。進化の劣った同胞から苦しめられたので、きっとそれに見合う償いを受けたであろう。

奴隷のような規則に従い、心と感受性を抑圧し、苦々しい無意味な人生を送っ自己嫌悪し、その上宗教に洗脳されて、不毛な苦悩自体が善人にさせてくれるのだ、という幻覚を信じる者の状況の方が、ずっと悲惨だ。内面では、自由で本当に幸せな者を羨んでいるのだ。中には嫉妬により、他者の罪悪感を弄んで嫌な思いをさせようとする者もいる。罪悪感を利用することは、意志放棄をさせるために教会が良く使った手口なので、彼らも充分心得ているのだ。