*でしたら、法王の絶対的権威と地上における神の代表という...
もちろん全て嘘だ。法王も普通の人間と同じように間違えることがある。法王と霊界との繋がりは、他の人のものと比べて何も特別なものではない。
高次の霊性との繋がりは、無条件の愛を努力することによって段々と強くなるもので、どれほど立派な肩書きを授けられようと、それで繋がりが深まる訳ではない。
*では、どこからそんな考えになったのですか。
先に言った通り、教会の首長自身がそう言っている。通常それは、権力や富への野望にそそのかされた行為を、誰にも見破られないように正当化するための手段なのだ。
救済には彼らが不可欠だ、と人びとに確信させることができれば、教区民を犠牲にして、誰にも咎められずに暮らせる筈だからだ。「神の任命した者たち」に従わなければ「永遠の罰」だぞ、と言っていつでも脅すことができた。それは「神の代理人」の命令に従わないのであれば、という意味で、つまり、彼ら自身のことを指していたのだ。
*悪業を清算するには告白が欠かせず、司祭から免罪されればそれを解消できる信念に関しては、どうですか。
霊的に改善する第一歩が、罪悪の自覚であるのは明らかだが、後悔するだけでは不十分だ。霊界では、「愛の法則」に反する行為は、犯した罪業を償うことによってのみ、解消可能だからだ。
そしてそれは、我々自身でするしかない。乗り切るための支援を受けるのは構わないが、どれほど高次の者であろうと、誰にもこの仕事を代わってもらうことができない。
司祭に免罪権を与えているのは、救済されるには教会の代理人が不可欠なので、経済的に支えてあげなければならない、と人に思わせる戦略の一部なのだ。
初めに言った通り、霊的な進化は、個人の努力によってのみ達成できるものであり、高次の存在との「コネ」によるものではないのだ。
*それでは、十字架上で死ぬことで、イエスが人類の罪をあがなったという信念と、彼が後に復活したことについてはどうですか。
これも正しくはない。イエスが霊性進化の道筋を教えにやって来て、彼の隣人愛の手本に従った者が決定的な変化を遂げたため、宗教上では「罪」とされた過ちを犯すことがなくその道を真っ直ぐに進んで行けた 。 というのは本当だ。だがそれで、前世での犯罪行為の償いに対処しなくて済むようになる訳ではない。イエスは誰の罪も払拭した訳ではなく、各人にそれぞれの罪をどうやってあがなうかを教えたのだ。大学入試の途中で、何人かの生徒の先生がやって来て、「私の生徒は答案用紙を提出しなくてよろしい。全員合格だ。試験官を知っていて合格にしてもらえるから大丈夫だ」と言ったとしたら、とても不公平だろう。頑張って勉強して自力で合格できる生徒を退けて、準備不足の生徒が値しないのに受かってしまえば、それは、各生徒の努力が公平に評価されていないのだ。良い先生がすべきこととは、生徒がきちんと試験準備ができるように、尽力することであろう。
イエスが試みたことはまさにそれで、各転生での霊的な試験に合格できるように、我々にきちんと準備をさせたかったのだ。霊界には「コネクション」は存在しないからだ。
我々には、犯した過ちを改める無数の機会が与えられる。だが、それをすべきなのは我々自身で、イエスや聖母やその他の聖人にすがるべきではないのだ。
*では、このことをキリスト教徒に納得させられますか。これは、カトリックの教えの主要な教義の一つですよ。
次の新約聖書のマルコの福音書(10, 35-40)でも同じことを言っているよ。
さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとに来て言った、「先生、わたしたちの頼み事を、かなえて下さるようお願いします」イエスは彼らに「何をして欲しいと、願うのか」と言われた。彼らは答えた、「先生が栄光の王座に就くとき、一人をあなたの右に、一人を左に座らせて下さい」イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」彼らは「できますとも」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けるであろう。しかし、わたしの右、左に座らせることは、わたしが決めることではなく、準備のできている者だけに許されるのである」
*でも、「あなたの罪は赦された」と言っていたのは、イエス自身ではなかったですか。
イエスが言いたかったことは、過去に「愛の法則」に反する行為をしても、永遠に有罪になる訳ではなく、何をしたかを問わず誰でも改悛し、いつでも好きな時に新しくやり始めるチャンスがあるということだ。