*しかし僕たちには、大なり小なり、そういうことが起こるのではないでしょうか。つまり、ほとんどの人に、憤りや悲しみや攻撃欲を目覚めさせて不機嫌にさせるような物事が、人生では色々と起こるのではないでしょうか。僕は、感情の抑圧についての説明がかなり自分に当てはまると思いましたが、癌に罹っていないのはなぜでしょう。
確かに、君たちは時々病気になるのだが、癌のように本当に重い病に罹るには、感情的な不快感に「囚われて」いなければならない。囚われるというのは、不快感が恒常的な固定観念に変わり、「エゴ的感情」に支配されるがままとなり、相当長い期間そのままの状態でいるという意味だ。長いこと、眠りの妨げとなる場合もある。
また、そういう感情を発散させたり表現する、全ての手段を抑制した場合である。
*では、癌になり易い性格というのがあるのですか。
そうだ。「エゴ的感情」(憤り・憎しみ・悲しみ・怖れ)に流される人と、感情の授受や表現が抑圧されていると感じている人だ。
*それなら、病気は、物事に正しく対処しなかった罰だという結論になりませんか。
罰ではなく、内的な感情的苦痛の結果である。
病気を生み出すのは当人であり、癒せるのも当人である。そのために、魂の本当の姿を抑圧せずに表明して、我欲から愛へと自分自身を変化させるのだ。
*でも、もう苦しんでいるのに、そのような重い病になることには、どういう意味があるのですか。苦しむだけで充分ではないですか。
肉体の不快感は、内面の不快感の反映だということに気づきなさい。
この場合、肉体的な病気は、当人に内面の病を気づかせ、変化を促すためのアラーム音のように作用する。
*でも当人が、肉体的な病気が内面の病と関係していると連想できなければ、どう自己変革できるというのですか。
肉体的な病気は、内なる魂を出現させまいとする頭脳の防壁を弱めるので、自己の感情のみならず、他者の感情や苦悩についての感知力が高まるのだ。そして、これが、人に変化を促すのだ。
*自分が変われば、病気は治るのでしょうか。
大半は治るが、全てのケースがそうではない。肉体レベルで修復不能な病害もあるのだ。
*治らない人たちは、死んでしまうこともあるのですか。
そういうことになる。
*自分を変えても治らずに、どうせ死んでしまうのなら、病気にどういう意味があるのですか。
霊的視点では、肉体の命は本当の命のほんの一瞬に過ぎず、肉体の死は終わりでも悪いことでもなく、より制限のない別次元への移行期だということを思い出すのだ。
病気は、人がより高次の理解・愛・叡智へと進歩するために役立つ手段なのだ。すでに述べたように、肉体の病は、内面の感受性の表現を妨げる頭脳の障壁を弱めるので、実のところ、進化に寄与するのだ。
人が、愛における進化で成し遂げた変化は、失われることがない。どこに行こうと、自分と一緒に持って行ける。これは、人生で得られるものの中では、最も貴重なものだ。生涯を通しての目標に掲げることができ、もしそれを達成できたとしたら、魂は自分の仕事に満足して、穏やかに霊界に戻ることができるのだ。実際、自分の魂に成し得た変化だけが、死ぬ時に持って行ける唯一のものだ。なぜなら、物的な成果は全て、物質界に残るのだ。
イエスの次の言葉はそれに言及しているのだ。「自分の宝を地上に積むのはやめなさい。そこでは、虫とさびでキズ物になり、また盗人が忍び込んで盗み出したりする。自分の宝は、天に蓄えなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が忍び込んで盗むこともない。自分の宝のあるところに、自分の心もあるからだ」(マタイ6・19〜21)
*でも、死んでしまったら、学んだことをどう実践できるのですか。
魂は体に宿っていようと離れていようと、生き続けるのだと気づくのだ。どちらの場合でも、学んだことは魂の一部となり、継続して進化していく役に立つ。