*二つ目のケースがよく分かるように例を挙げていただけますか。

よかろう。人を好きになったとしよう。最初の衝動は、そういう気持ちが芽生えた人に、意思表示をしようと近づくことだ。これが、気持ちのままに行動するということだ。だが今度は、頭がその思考回路に沿って、感情を分析することとなる。これは、それまでに授けられた偏見と禁制に満ちた教育の全てに条件づけられてしまっており、そこから感情の表現を咎める一連の思考が生まれる。たとえば、その関係が発展するために悪影響を与えるような不都合(年齢差・人種・社会層・宗教・信仰・好みや趣味の違いなど)を示唆したり、拒否される怖れを増長させる(彼女は同じ気持ちではない、NOと返答するだろう、滑稽な真似はやめろ、何て思われてしまうだろう、など)。思考が感情を負かし、心で感じたことをするのを止めてしまうと、気持ちに従わなかったことで罪悪感を覚える。感情に委ねたとしても、自分の気持ちに適合するように思考を完全に修正できなければ疑心暗鬼になり、再び思考に攻撃され、考えたことではなく感じたことをしたことに罪悪感を抱かせられる。

 

*罪悪感はどのように克服できるのですか。

利己的な行為を認識することで罪の意識が生まれる場合には、落ち込んだりがっかりせずに、新たにそうならないように積極的に行動することだ。たとえば、傷つけてしまった人に謝ることから始めるなど、自分がしてしまった悪いことを可能な限り修復しようとするのだ。そうすれば、罪悪感は消えるだろう。

気持ちに反して、考えに従って行動したために罪悪感が生まれる場合には、初めに、自分が感情に則った行動をしていないことを認識すること。次に感情に従う勇気を持ち、感じるままに生きることで、そうすることを阻む抑圧的な思考回路を壊すことができる。

このプロセスを開始し、気持ちに素直に生きて行動し始めてはいるものの、まだ頭の制約が強く、その努力を放棄するように悩ませられている人には、非常な忍耐力が必要だ。自分の気持ちに大いに自信を持って、それに従って行動する固い意志が必要となる。

苦しむとしたら、それは感じることのせいではなく、考えることのためだと知るべきだ。それゆえ、感情ではなく、思考を修正すべきなのだ。

心で感じることが分からない人たちによって責められたなら、過去自分もそうであったように、その人たちがまだ利己的で偏見に満ちた考えに捉われているのだと理解すべきだ。彼らには、忍耐と理解を持って接する必要があるが、影響されてしまってはいけない。

 

*恨みとは何ですか。

恨みとは時間が経って薄れたものの、憎悪が長期にわたり継続するものだ。通常は、反対されたり被害にったせいで、自分の不運を招いた責任者だと判断した特定の人に向けられる。

攻撃欲が目覚めるきっかけとなる事件は、かなり以前に遡る場合もある。しかし恨み深い人はこの件をずっと記憶し、攻撃的な衝動を育み、復讐すれば不快感を軽減できるだろうと思って、その機会を待つのだ。

 

*恨みはどこで生まれるのですか。

気持ちに従って生きてこなかったという不満や、やりたかった事を実行しなかった欲求不満、また自分が遭遇した逆境を受容しなかったためや、自分自身の欠点(怖れ、安楽さ、意志力の欠如、無理解、怠惰など)に負けてしまった後悔などから生まれる。

恨みは一般的に、気持ち通りにできなかったことに加担したり協力し人たちや、やりたかった事に反対した人たち、自分の困難な状況に責任があると思う人たちに、誤って向けられる。

 

*どうやってそれに打ち克つのですか。

外部に責任者を探そうとする代わりに、内面の不快感がどこから生じるかに気づいて、別の問題を誘発する可能性があるとしても、人生の中の好きになれないところを修正する勇気を持つこと。

運命のいたずらに思えるネガティブな状況は、時には、欠点を乗り越えて無条件に愛す能力を高めるために、自分自身が選んだ試練の場合があることを理解するように努めるのだ。

 

*前にした質問をもう一度くりかえすことになりますが、憎悪・憤り・怒り・恨みなどの感情を表に出せば、他者を傷つけることになりかねま せんが、溜め込んでしまえば自分自身を痛めつけることになります。ですから、こういう感情はどうしたらいいのですか。

根本から断ち切ってしまうのだ。それらの感情が内部に目覚めないように努めるのだ。攻撃欲が外部ではなく内部に生まれることを認識して、それが目覚めたのだとしたら自分の中に存在している我欲が顕れたのだと気づくのだ。

自分の取り柄が表価されないために我欲が目覚めるならば、まだ虚栄心を克服できていないのだ。感謝されなかったり中傷されたために苦しむのであれば、自尊心や尊大を超える必要があるのだ。

攻撃欲が外部ではなく内面に起因するのは、どんなに酷い無礼や非難をされても、忍耐も笑顔も絶やさずに耐えられる人たちがいる一方で、どんな些細な事にも制御不能なほど激怒してしまう人たちがいるのを見れば明らかだ。

最初の人たちは、自己の攻撃性の根絶において、霊的に進んだ人たちだ。二番目の人たちは、そう努めようとし始めてもいない。

ほとんど影響を及ぼすことのできない外側の世界を変えられないからって、欲求不満になってはならない。自分が全権限を有する、内面の世界を変えるように努力するのだ。そうした時に、外でのことは、もう怒りの原因とはならなくなるのだ。

 

*攻撃欲はどう乗り越えるのですか。

先ず自分にそれがあることを認め、次に理解によって克服しようとするのだ。

 

*何を理解しないといけないのですか。

自分自身を理解し、他者を理解し、直面する状況を理解する。

自分が間違っていると認めるのが嫌で、自分自身の利己的な態度を認めたくないがために、怒ってしまう場合があると理解すること。

また、自分の意見を抑圧するために攻撃的になるのであれば、在るがままに自分を表現するように努めるのだ。

誰かに傷つけられてそうなるのであれば、それは相手の魂の成長が足りず、愛の認識に関してほとんど進化できていないためなのだと理解すべきだ。かつては自分も同じように霊的に無知な状態で、今されたことと同じことを人にしていたのかもしれないと気づきなさい。自分の利己的な行為が理解されることを期待するのなら、他者の利己的な行為に関しても寛容な態度をとらなくてはならないと理解すべきなのだ。 我々が直面する逆境の多くは、我々に嫌がらせをするために出現したのではなく、愛の学習と我欲の克服を促進させるためのもので、その多くは生まれる前に自分自身で選んだものなのだと理解するのだ。そして大半を占めるその他のものは、自分の頑固さ・不寛容・羨望や、他者の欲求や意見を尊重・理解しなかったために、我々自身が招いてしまったものなのだ。

 

*攻撃欲が触発されてしまった場合に、誰にも迷惑をかけずに、不快感から解放されるにはどうしたらいいでしょうか。

他者を傷つけずに不快感を解放する、いい発散方法がある。

それは、どう感じているかを言い表わすということで、自分にわき起こった感情を認めて、そうなった理由を述べるのだ。聞き手は、傷つけないように当事者以外の穏やかな人が好ましく、攻撃欲には簡単に屈しない信頼できる人でなければならない。

不快感を表現するだけで、攻撃欲から生じた不快が和らいでかなり楽になる気がするし、もっと冷静に理性的になれる。

その後でさらに落ち着けば、けんかをした人との話し合いを試みて、解決策を模索することが可能だ。しかし、それには時と方法を選ばねばならず、怒りや激情で爆発しそうな時は、絶対に避けねばならない。そうなってしまえば、自分が受けたのと同等かそれ以上の苦痛を相手に与えて、大いに傷つけてしまうかもしれないからだ。