*多くの人が、その価値があるのかと悩むだろうと思います。
価値があることは請合おう。感情に従って行動していくにつれて、愛だけが与えてくれる内面の真の幸福を、少しずつ体験し始めるからだ。
また、こうして霊的にも進歩できる。感情は絶対に放棄してはならない。それは努力し生きる甲斐のある、唯一のものだ。
最初は、ネジが固く締められているので一番難しい。ネジが緩み始めるまで、非常に努力せねばならない。しかし、その後で道は楽になり、経験していく感情が君たちの心を(もちろん、愛で)満たし、それまで味わったことがなかった気持ちにしてくれるので、継続する力を与えられるだろう。
*では、他者を愛すにはどうしたらよいのでしょう。
他者を自分と同様に見なすのだ。彼らも、同じ内面的な必要性を持った同じ本質の兄弟なのだ、と自覚するのだ。我々は皆、同じ資質を持ち、幸せであるには、完全に自由に愛し愛される必要がある。
炎天下を水も飲めずに長く歩いて来て、自分がのどが渇いているとしたら、これと同じ状況にいる人は誰でもやはり水を欲している、と思いつかないだろうか?
水と同じことが愛についても言えるのだ。愛を奪われると、我々は全員苦しむ。愛が与えられると皆、元気づけられる。それゆえ、愛情に渇えている人を見かけたら、その人に愛の水を飲ませてあげなさい。我々が愛に飢えていた時に、その水を飲ませてくれた人たちがいたように。
*でも、他者にいいことをしようと思っても、感謝されなかったり、軽蔑や嘲笑されたとしたらどうしますか。
誰かに害を加えられたら、その人が愛において進化不足なのだと理解して、その状況を自分自身を改善させる機会として利用すべきだ。
我々の中で何か否定的なものが目覚めたとしたら、それは我々自身にまだその要素があるということで、排除しようと努力しなければならない。
前に言ったが、愛を無条件で与えられるようにならない限り、課題を終了したと見なすべきでない。感謝されないことを容認できない人は、まだ与えるものの見返りを何か期待していることになるので、ゴールに行き着いてはいないのだ。
*それなら人は、「なんてこった。自分が変わろうとしても他の人たちが変わらないなら、どんな目にあわされるだろう。そんな甲斐があるだろうか」と思うのではないですか。
人に叩かれるのはかわすことが出来るのだから、自分自身に叩かれるよりいいのではないか?愛がない生き方をする者は、自分自身を叩いているのであり、愛そうとしてくれる人を近寄らせないのだ。
*お話はもっともですが、まだ疑問が湧いてきています。
自由に話してごらん。
*先ほど、感情を押し殺さずに表現することの重要性を強調されましたね。でもその一方で、他者の愛情の欲求や感情を配慮することも大切だとお話しされています。そこで質問なのですが、憎しみ・憤り・怒り・恨みなどの否定的な感情は、それらを表現すると他者を傷つけることになりませんか。他者を傷つけずに感情を表現するにはどうしたらいいですか。両方を尊重するのは、難しいのではないですか。
君の焦点の当て方では、確かに矛盾してしまう。
全く反対のことなのに、言葉不足のせいで、感情という同一の単語を使用してしまったからだ。混乱を招かないように、もう一度その概念を明確にする必要があろう。
前に、感情に委ねなければならないと話した時は、愛から生まれる感情に言及していたのだ。これらはもちろん、常に肯定的だ。区別できるように、「愛的感情」と呼ぶとしよう。
我欲から生まれるもの、または愛と我欲の葛藤から生じるものは、否定的な感情で「エゴ的感情」と呼べる別物であり、違う方法で扱う必要がある(それは後で話そう)。「エゴ的感情」の意のままに行動するのは、他者に多大な弊害を与えるので、確かに避けるべきだ。
どちらの場合にせよ、感情を抑圧しても碌な事がない。自分の内部を傷つけるだけだ。