*これまでの説明を伺って、もっとずっと沢山の疑問が湧いてしまったので、それらを明らかにして下さればと思うのですが。特に、情緒と感情、我欲の様々な具現形態(虚栄心、自尊心、尊大)に関するものです。それらをもう少し知りたいのです。
遠慮なく質問してごらん。
*以前、感情と思考とは起源が異なり、我欲は頭脳から生じると言われましたが、考えるのはそれ自体が悪いという意味でしょうか。
とんでもない。言いたかったとことは、感じることと考えることとの区別ができるようになる必要があるということだ。君たちを混同させるような利己的な考えは、頭を介して魂に入ってくるからだ。
感情を抑圧しない限り、思考自体は悪いものではない。思考が気持ちと調和していれば、感情を愛の行動へと変容させるための貴重な道具となる。
君たちの世界の問題は、感じないまま考えることを教えたことだ。感情に基づかない思考は、我欲を増長させる。愛における進化とは、我欲ではなく感情の力で、思考を修正することを学ぶことにもなるのだ。
*お話がまだ理解できないので、例を挙げて下さいますか。
もちろんだ。とっても好きな人に会ったと想像してごらん。君は男性で、彼女は女性で、長いこと会っていなかったとしよう。
その人に対する愛情から君は喜び、ハグしてどれだけ好きだか表現したい衝動に駆られる。しかし、君が性的偏見を持った人たちと一緒にい て、彼らには異性間の深い友情関係が理解できないことも、後で批判され中傷されることになるだろうことも知っていたとする。この不都合のせいで、君は気を変えて感情を抑え込むので、愛する人に出会っても人にどう言われるかを恐れて、そっけない素振りで礼儀正しく握手をするだけなのだ。
この場合、脳で状況分析された思考は、感情を変えてしまったのだ。つまり、最初の感情は喜びであったのに、頭で自制した後に冷淡に振舞ってしまい、感情を押し殺してしまったのだ。
*でも、その人を好きなのなら、不必要に感情を表せば迷惑をかけてしまうかもしれないので、引き合いに出された状況では、慎重にならざるを得ないと思います。批判的な目のない場所で、より適切な瞬間を待って、気持ちを表せばいいと思います。
確かに、慎重は美徳だ。多くの場合、人の意見は理解も尊重もされないので、他者の自由意志を尊重する場合には、慎重でなければならない。だが、怖れに慎重という衣を着せないように注意しないといけない。
慎重であれば、適切な状況でなければ感情の表現方法を変えるかもしれないが、感情を押し殺すことはない。だが、怖れはそうする。人は怖れに捉われると、実際には危険も脅威もなくても、怖れが頭の中でそれを現実化してしまい、感情の表現を抑え込んでしまう。他者の反応を恐れる余り、自分自身の人生に関して決断しなくなる時から、感情の抑圧が始まるのだ。
*頭はどうして感情を抑圧するような規制をすることになったのですか。
一部は我欲自体から生じ、残りは幼児期からの教育のせいだ。君たちの惑星での教育は、感情を強く抑制するものなのだ。
長い間、君たちの教育方針は頭脳を発達させることを重視し、頭脳そのものを利用して感情の育成を抑えてきたのだ。子どもたちは、感じたり感情を表現する大きな能力を携えて、在るがままの姿を表現しようと、心を思い切り開いて生まれてくる。しかし、愛情や喜びや自発性を抑制され、喜びを味わうたびに罪悪感を覚えるように、小さい頃から愛の代わりに執着を体験させられてきたのだ。
何世代にもわたって、子どもたちに教えてきたものは何か?良い子というのは言うことを聞く子で、親や教師や大人の意志や、社会の規則や便宜の奴隷であるということだ。
子どもがどうしてそうしなければならないのか分からず、その理由を尋ねた時に「父親の私がそう言うからだ」と返答したことがどれほどあ ろうか?そして両親が不機嫌ならば、子どももそのイライラを我慢しなくてはならない。命令と厳格さばかりで、自由が少ない。
親や大人に聞かずにしたことは、全て悪いことになる。笑うことも、泣くことも、話すこともいけないことで、親の許可を得ずに黙っても悪いとされる。「私が認める人とだけつき合い、その人を好きになって、言う通りにしなさい。お前のためだよ」と言うのだ。
非常に宗教的な社会では、全てが罪悪だ。いかなる喜びの表現や、ハグやキスといった愛情表現も罪となる。それら全てに、罪深く、卑猥で、暗く、悪魔的なものを見出し、幸せに感じると罪悪感を覚えなくてはならない。犠牲者を刑吏に、無実な者を罪人に変えてしまう。
そのために子どもは、苦しまずに済む唯一の方法は、感情を殺すことだという結論に達してしまう。本来の自分とは似ても似つかない、他者が求める自己像を世間に示すことを覚える。そして、社会の規制は余りにも厳しく、演技をし続けないといけないので、大人になると、見せかけてきた自分を本物だと思い込んでしまうのだ。
大半の子どもが大人になった時には、在るがままに愛してもらうことなどなく、ほんの少し愛してもらうためにも必ず何かいいことする必要がある、という結論に無意識に達してしまっている。
つまり、支配的・条件的・強制的・利己的で偽りの愛である執着を信じ、無条件で自由で自発的な愛を放棄するように、子どもたちを教育してしまったのだ。その結果、愛を信じ、愛に生き、そこから湧き出る幸福をほんの少しでも体験できる人は僅かなのだ。そして、愛がないために、我欲とそのいとうべき表現形態が我がもの顔でのさばるのだ。
君たちの世界の悪者の中で、子どもだった時に可愛がられた者は少ない。「父母を敬え」という訓戒があるのに、なぜ「子を敬え」という教えがないのだろう?
君たちの世界の弊害の多くは、まだ感情に鎧を着せていない子どもたちを愛せば、解決されることだろう。愛せば、愛を許容するだろう。子どもたちを一世代にわたって愛せば、世の中は一世紀も経たないうちに天国へと変わるだろう。