僕たちはこの星の涙に似ている。
■ ■ ■ 僕たちはこの星の涙に似ている。 ■ ■ ■
「 このままでいいはずがない。 いいはずがないんだ。」
・・・変化・・・
「淘汰の掟についての考察」という綿埃に塗れた一冊の本を高田馬場の古本屋で手にしたのは1999年の始め、ちょうど世間が2000年問題に沸いた年で、僕が家業を捨て上京してきてから三ヶ月くらいが過ぎた頃だった。
ロシアの核ミサイルが誤作動を起こすかも知れないだとか、金融機関の機能がすべて停止してしまうだとか、
今思えば都市伝説級の噂話が平然と罷り通り、ニュースでそのトピックが流れる度、
ぼんやりと映像を眺めては「へー、大丈夫かなぁ。」などと独り言を呟き、一応関心がある振りはしていたが、僕にとってはたった今吐き出した煙草の煙がどのあたりで空気の色と同化するかということの方が重要だった。
その頃の僕といえば淘汰についても、掟についても、ましてやその考察についてなど全くと言って良いほど興味がないどころか、自分の人生についてもどこか傍観的だった。
高田馬場という町を訪れたのもその日が初めてだった。
終わりも始まりもない環状線に乗り込み、ドア付近に陣取って車窓に額を擡げながら、
ただ過ぎていく光景を眺める。
目に留まった物から連想する脳内の記憶をつまらないフランス映画でも観るように無表情で鑑賞する。
一歩もそこから動かず、僕自身は前に進んでいなかったが終わりも始まりもない環状線が法律で規定された速度で僕を運んでくれた。
僕は一歩も進んでいなかったが電車と時間は冷静に進んでいた。
高田馬場で降りようと決めたのは目的があったからではない。それは一種の反抗心からだった。
人には大抵行く先があり、その行動には大抵目的があると言っていい。僕自身を振り返ってみても、今この瞬間の自分を分析してみても、どこか目的地を条件反射的に欲していた。
僕はその欲求に抗いたかった。
目に映る物すべてが人工的で、僕の心さえも誰かに作られているのではないかという妄想の沼から這い出したかった。
目的地を欲しがる自分を欺く為の象徴的行動として高田馬場で突発的に下車した。
しかし降りてすぐ、下車した行動にも自分のくだらない妄想的欲求を消化するという目的があったことに気が付き、結局、「 行動と目的 」の「 原因と結果 」にも似た因果関係からは逃れられないという牢獄のような現実に力が抜けた。
やっとの思いで掘った脱走用のトンネルを抜けた先で、ニヤニヤしながら警棒をゆっくりと手のひらに打ち付けながら待っていた看守たちと目が合った瞬間のようだなと自嘲して誤魔化すしかなかった。
ついさっき降りた電車は無機質な風景に消えていった。
降りなければ今頃は僕もあの無機質な風景の一部になっていたかと思うと、
目的欲求からは逃れられなかったものの、自動的に進んでいく時間からは自立できた気がした。
プラットホームに立った足元を見ると、ぼやけたスニーカーの靴紐が解けていた。
僕は何かのまじないでも掛けるように
靴紐を力いっぱい結んだ。
立ち上がった視線の先に階段が見えた。
僕にはその階段が新しい世界への入り口のように思えた。
遠い西日が集積回路のような街の陰を照らしている。
僕は目に映るすべての風景から背中を押してもらった気がした。
ここから先は自分の意思で歩いて行っていいのだと、
次の一歩からは、誰でもない自分が決めて行くべきなのだと。