ふるさとの偉人 中山三屋 | 山口アートフェスティバル

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ふるさとの偉人


中山三屋の生涯


 寝てあかす人もきけとや 秋の夜の ふけゆく月に ころもうつらむ


 生い立ち
 中山三屋は周防国富田荘中山「現周南市大字上村字中山」の農業戸倉岱助(たいすけ)の娘とされている。岱助は中山で農業を営む家に生まれたが、志を立てて江戸に出て、幕臣某に召抱えられ、士籍に列せられた。一時、江戸の南部候に仕えたが、後に京都に移り、ある公家に仕え名を「将監(しょうげん)」とあらため、妻・室谷民子をめとり、天宝11年(1840)9月25日に生まれたのが三屋女である。本名は「宮」で「三屋」は尼としての署名字である。或る公家とは、中山中納言忠能であると言われている。
  三屋女が生まれる1年前から父岱助は「戸倉」性から「中山」性を名乗るようになった。即ち、「戸倉将監」から「中山岱助忠道」と名を改めている。
 戸倉から、中山に変えた理由について、岱助が富田荘中山の出身であるからその地名に由来するものであれば、すでに中山性を名乗っていなければならず、中山性は、出身地名からとったものとは、考えられない。とすれば中山大納言からの特別の条件のもとに中山性を賜り、名前も中山家のいみな「忠」の入った「忠道」とすることを許されたのではないか。その特別な条件とは三屋女の実父は大納言中山忠能で、母は、奥女中をしていた室谷民子で忠能からかかわりのあった民子を譲りうけることが条件ではないかと考えられる。
 以上のように中山三屋女の生い立ちは謎につつまれている。三屋女は死ぬ2年前「明治2年」になき父、戸倉岱助の実家があった現周南市大字上村字中山の叔父戸倉光蔵に父は無口で私に何も言ってくれなかった。私は一体何者の子か先祖さえはっきり知らない。当地に行った折、叔父さんから詳しく教えてくださいという出生について知りたいという手紙を出している。(中山三屋女は32歳で死去)
 三屋女の母民子は、かなり教養のある賢婦人だったようで、その影響をうけた三屋女は幼少の頃から天性の怜悧(れいり)により、書を読み歌を詠じ、また絵を描き書を書き、男子をして羨望(せんぼう)せしむるほどだった。性格も男勝りだったようである。

 6歳のとき「立春梅」と題して詠んでいる


 我が宿の軒はのう芽もひもときて  鶯さそう春は来にけり


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