錦帯橋について
5連のアーチからなる錦帯橋は、全長193.3メートル、幅員5.0メートルで、継手や仕口といった組木の技術によって造られています。
初代岩国領主吉川広家が岩国城を築城して以来、岩国城と城下町をつなぐ橋は、数回架けられているが、錦川の洪水により、たびたび流失していました。
3代領主吉川広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手する。橋脚を無くすことで流失を避けられるとのアイディアのもと、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋の調査を命じた。しかし、川幅30メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200メートルもあるため、同様の刎橋(はねばし)とするのは困難でした。
広嘉は、明の帰化僧である独立(どくりゅう)から、杭州の西湖には、島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知ります。これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想にしました。つまり、アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのです。
児玉九郎右衛門の設計により、1673年(延宝元年)に5連のアーチ橋の錦帯橋が完成しました。しかし、翌年の1674年(延宝2年)、洪水によって流失してしまいました。同年、橋台の敷石を強化して再建したところ、この改良が功を奏し、その後は昭和期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保ちました。
最近の架け替えは、2001年(平成13年)より2004年(平成16年)に26億円をかけて行われました。
錦帯橋は藩が管理し、藩内では掛け替え・補修の費用のために武士・農民など身分階級を問わず「橋出米」という税が徴収されていました。ただし当時、橋を渡れるのは武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れるようになるのは明治に入ってからです。
あの富士山の絵で有名な葛飾北斎も錦帯橋を描いています。錦帯橋が世界遺産になる日を楽しみにしています。
