龍文寺について | 山口アートフェスティバル

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鎮西吉祥山鹿玉山龍文寺について


 龍文寺は1430年(永亨2年)陶氏5代盛政により創建されました、以後陶氏代々の菩提寺として保護されてきました。龍文寺は、曹洞宗の総本山の永平寺より「鎮西吉祥山」の山号を授かりました。
 また龍文寺は、鹿玉山の名前もついています。この名は、在山和尚が開山のために土地を探していたところ、鹿玉が現れ玉を献上したことから「鹿玉山」と号するようになったといわれています。
 陶氏滅亡後、毛利氏によって保護され現在に至っています。

 龍文寺の山門はりっぱな門で、「常楽門」と呼ばれています。「常楽」とは「つねにねがう」の意味もあり、この門を通れば喜びと幸福につつまれるといわれています。現在の門は平成14年4月に着工され、平成17年3月に完成しました。門の両側には仁王像、2階には十六羅漢像が置かれています。



SOLVE 周南郷土文化科学館だより



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 龍文寺は陶氏の菩提寺なので、陶氏の墓があります。陶氏は、南北朝時代に弘政が吉敷郡陶(山口市)から都濃郡富田保に移り周防守護代としてこの地を領有していました。1551年陶晴賢は主君の大内義隆を討ち実権を握りましたが、1555年に毛利元就に敗れ、3年後に滅亡しました。陶氏終焉の地も龍文寺には陶一族の墓があり、歴史上貴重な石塔群として周南市の指定文化財となっています。



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長穂念仏踊

 大内義隆を討った陶晴賢(すえはるかた)は1555年厳島の戦いで毛利元就に敗れ自刃。若山城にいた晴賢の子長房(ながふさ)と小次郎は、杉重輔(すぎしげすけ)に攻められ龍文寺へ立てこもりました。 ここ龍文寺は、錦川と険しい山々に囲まれた堅固な要塞です。追い詰めた杉氏は、周防神社祭礼の踊りを踊って龍文寺に乱入します。激しい戦いの末、陶氏は敗れてしまいます。その後、陶氏の供養のため毎年7月7日に踊りを伝え、やがて雨乞い踊りへと変化し現代まで続いているといわれています。



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