1980年の大統領選挙において、元カリフォルニア州知事のロナルド・レーガンがジミー・カーターを破り勝利しました。この勝利は、その後の数十年間にわたり絶大な影響力を及ぼす強力な保守主義政治運動の台頭を象徴するものでした。 新保守主義は、政府に対する反発、規制緩和と減税、対ソ連における強硬な外交政策の支持、そしてキリスト教的道徳観に基づく、いわゆる「家族の価値観(ファミリー・バリュー)」の推進を融合させたものでした。
​レーガンは、減税と規制緩和を柱とする経済政策「レーガノミクス」を推し進めました。1970年代後半の深刻な経済不況が1982年以降に記録的な拡大期へ転じると、レーガンの人気は急上昇しました。ソ連に対する強硬な修辞的姿勢や大規模な軍備増強も、保守派だけでなく、従来は民主党に投票していた多くの不満を抱く中産階級の有権者からの支持を獲得する要因となりました。1984年、レーガンは圧勝で再選を果たしました。
​レーガンの人柄を魅力的に感じる人が多くいた一方で、その政権運営は賛否両論を呼びました。1980年代には年間の財政赤字が過去最高レベルに達し、1988年までに国家債務は3兆ドル近くにまで膨れ上がりました。
​また、冷戦を推し進めようとする保守派の熱意は、政権最大の危機である「イラン・コントラ事件」を引き起こしました。これは、イランへの武器売却によって得た資金を、ニカラグアの反共ゲリラへ秘密裏に提供していた違法な計画でした。レーガン政権の複数の高官がこの事件への関与で有罪判決を受けましたが、レーガン自身は訴追を免れました。しかし、彼は後に自らの政権が人質解放のためにイランと武器取引を行っていたことを認めました。
​レーガン政権下における外交問題
​ソ連と東欧: 1980年から1985年にかけて困難な時期を過ごしたソ連には、その後の5年間で驚くべき変化が訪れました。共産党の一党独裁の放棄、ソ連体制の再構築、そしてソ連帝国の解体の始まりです。
​ソ連帝国の崩壊: 国際社会は、ソ連が15の独立国家へと解体されていく異例の過程を目撃することとなりました。レーガン時代の1980年代には、すでに内部改革が進み、共産主義勢力の衰退が見られました。