……そして中年に差し掛かると保守派の連立を呼び起こし、69歳で大統領選に勝利した後はアメリカ政治を右傾化させた。レーガンが育った家庭は、当時の基準からすれば社会派であり政治的にもリベラルであった。
カトリック教徒の父ジャックと福音派プロテスタントの母ネルは人種差別を強く非難し、若きロン(レーガン)はユダヤ人の恩師から支援を受けていた。
父ジャックの雇用事業促進局(WPA)での仕事は、1930年代の大恐慌下で一家が生き残る助けとなったが、父のアルコール依存症は息子の性格に傷跡を残した。表面上は親しみやすく楽観的であったが、レーガンは普段から己の感情を隠し、対立を避け、多くの知人を作りつつも親しい友人はごくわずかしか作らなかった。
1932年にユーリカ大学を卒業後、レーガンは中西部でラジオのスポーツキャスターとなり、その後ハリウッドで映画俳優としてのキャリアを開始した。映画界のしばしば荒放図な社交生活は概ね避けていたものの、彼は全米映画俳優組合(SAG)で活発に活動し、ハリウッド政治を巧みに操るようになった。1940年、彼は自身の代表作となった映画『Knute Rockne: All American』の製作取り付けに尽力し、ノートルダム大学フットボール界の伝説的選手ジョージ・“ジッパー”・ギップ役で主演を務めた。
同年、彼は女優のジェーン・ワイマンと結婚した。レーガンは国政にも関心を持ち、フランクリン・D・ルーズベルトに4度投票し、リベラルな活動へあまりにも容易に情熱を傾けたため、後年自らを「血友病患者(=出血しやすいことになぞらえ、すぐに他者に感情移入してしまう例え)」だったと冗談めかして語ったほどであった。視力低下のため第二次世界大戦の戦闘からは除外されたものの、米陸軍が製作する映画や劇に出演した。1940年代後半に起きた一連の危機は、レーガンの人生を決定的に変えた。彼は肺炎で瀕死の重態となり、結婚生活は破綻し、映画俳優としてのキャリアも行き詰まったのである。
レーガン夫妻(ロナルドとナンシー)が初めて出会ったのは1949年、ナンシーが自身の名前が左翼団体の郵送先リストに記載されているのを発見した時であった。彼女が苦情を申し立てたところ、全米映画俳優組合の委員長であったレーガンに回され、彼が問題を解決することができた。どうやら彼女は同姓同名の別人のナンシー・デイヴィスと混同されていたようであり、レーガンは事情を説明するために彼女を夕食に招待した。
二人のロマンスはゆっくりと育まれた。レーガンはジェーン・ワイマンとの離婚のショックからまだ立ち直っていなかったが、ナンシーという慰めとなる心の支えを見出した。彼は非常に口数が増え、彼女は聞き上手に徹した。二人は1952年2月に婚約し、1952年3月4日に俳優のウィリアム・ホールデンを介添人として結婚した。同年後半には長女のパトリシア・アン(パティ)が誕生した。1958年には長男のロナルド・プレスコットが誕生した。なお、レーガンには最初の結婚で授かった子供も3人いた(1人は養子、1人は生後間もなく死亡)。
1950年代に入ると、ナンシーとロナルドの映画キャリアは共に下火になっていった。レーガン夫妻は「エル・ランチョ・デル・シエロ」という牧場を購入し、南カリフォルニアの富裕層の友人グループと交流し始めた。1957年には映画『Hellcats of the Navy』で共演した。これがナンシーにとって「最後」の映画出演となり、夫のレーガンも映画をほぼ諦め、テレビへと活動の場を移していった。
レーガンの出演作一覧:
http://www.imdb.com/name/nm0001654/
レーガンの「最後」の出演映画『ザ・キラーズ/殺し屋』は1964年に公開された。同年、彼は共和党の大統領候補バリー・ゴールドウォーターのためにテレビで選挙演説を行った。ゴールドウォーターは選挙に敗れたものの、レーガンはカリフォルニア州の共和党員に強い印象を与え、1966年の州知事候補に選出された。そして彼はその選挙で勝利を収めた。