資本主義の再活性化と民主主義への要求:1980–1989年
概要
米国において「レーガン時代」(1981–1988年)は、予算削減と減税、規制緩和、「ジャンク債」による資金調達、レバレッジド・バイアウト(LBO)、企業の合併・買収(M&A)を通じて、当時の米国史上最長の経済的繁栄をもたらしました。
しかしその一方で、株式市場の暴落(1987年10月「ブラックマンデー」)が発生し、連邦政府の財政赤字および貿易赤字が拡大しました。
外交政策では、国防費の増額、MXミサイルシステムの推進、そして「スターウォーズ」計画(戦略防衛構想:SDI)を通じて、強固な反共主義の姿勢を示しました。
冷戦が終息に向かう中、4回にわたるレーガン・ゴルバチョフ首脳会談(1985–1988年)は、中距離核戦力(INF)全廃条約(1987年)の締結という頂点を迎えました。一方、イラン・コントラ事件(1987年7月のオリバー・ノース中佐によるテレビ公聴会証言)は重大な政治的スキャンダルとなりました。
また、ホームレス問題や薬物乱用(特にクラック・コカイン)が重大な社会問題として深刻化しました。
保守主義運動の台頭:レーガンの「革命」
アメリカの植民地住民がイギリスからの独立を考慮し、自らの政府機構の設立を模索し始めた時代から、政府が持つべき権力の範囲をめぐる活発な議論はほぼ絶えることがありませんでした。
1780年代後半に合衆国憲法の批准が議論された際、一部の著名な愛国者たちは、そこに記述された連邦政府は個々の州に対して過剰な権限を持つことになると主張し、それ以来「州の権利(州権)」対「連邦政府の権力」は過熱した論争であり続けています。
20世紀に入ると、企業や銀行に対する政府の規制、そして社会福祉プログラムの制定などを通じて、連邦政府の権限は拡大しました。1930年代のフランクリン・D・ローズベルトによるニューディール政策、1940年代のハリー・S・トルーマンによるフェアディール政策、そして1960年代のリンドン・B・ジョンソンによる「偉大な社会」構想は、いずれも連邦レベルで社会的・経済的問題に対処することを目的として設計されたものでした。
1980年、ロナルド・レーガンは**「政府は私たちの問題の解決策ではない。政府こそが問題なのだ」**というテーマを掲げて選挙運動を展開しました。減税を実施し、複数の社会福祉プログラムを廃止し、企業に対する政府規制を緩和することで、彼は20世紀の政治的トレンドを逆転させ、その政策は停滞していたアメリカ経済の回復に寄与しました。
レーガンの政策とその卓越した演説能力は支持者から絶大な熱狂を引き出し、2度にわたる大統領選挙での圧倒的な勝利(ランドスライド)をもたらしました。一方で対立陣営は、彼の政権下で制御不能なまでに膨れ上がった膨大な連邦財政赤字に注意を促しました。
それにもかかわらず、最高齢の大統領であった彼は、2期の任期を終えた後も精力的に活動し、高い人気を保ち続けました。
「私はワシントンに来た時と同じ人間のままだ」と、彼はホワイトハウスを去る際に語りました。「私はワシントンに来た時と全く同じことを信じている。」
ロナルド・レーガンが生まれた時、父親のジョンは10ポンド(約4.5kg)の赤ん坊を一目見て「丸々とした小さなオランダ人(fat little Dutchman)」と呼びました……この「ダッチ(Dutch)」というニックネームは彼の生涯を通じて定着することになりました。若き日は政治的リベラルであったロナルド・ウィルソン・レーガンは、結成に貢献し……(※原文ここで途切れる)