和布刈神社および周辺地域における神功皇后との関係について、社伝(神社の公式な記録)、地域に伝わる伝承、および関連する地名の由来という「記録された事実」に基づいて解説します。
和布刈神社と神功皇后の関係は、単なる「立ち寄り地」ではなく、「神社の創建者」であり、かつ現在まで続く「神事の創始者」であるという極めて密接な当事者性にあります。
1. 和布刈神社と神功皇后の直接的な関係(社伝による事実)
和布刈神社の由緒(歴史的起源)において、神功皇后は以下の3つの役割を果たしたと記録されています。
* 創建者としての役割:
社伝によれば、和布刈神社は仲哀天皇9年(西暦200年)、神功皇后自身によって創建されました。三韓征伐(朝鮮半島への出兵)からの帰途、この早鞆の瀬戸(関門海峡)に立ち寄り、戦勝を導いた神への感謝として社を建てたとされています。
* 祭祀者(神主)としての役割:
これが最も特徴的な点ですが、神功皇后は自らが神主(祭祀を執り行う者)となり、早鞆の瀬戸のワカメを刈り取って神前に供えたと伝えられています。これが現在も毎年旧暦元旦に行われている**「和布刈神事(めかりしんじ)」**の起源です。通常、皇族が創建を命じることはあっても、自らが海に入り供物を捧げるという伝承は稀有であり、皇后のこの地に対する強い畏敬の念が示されています。
* 奉斎した神:
皇后が祀ったのは「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)」、別称**「瀬織津姫(せおりつひめ)」**です。この神は潮の満ち引きを司る月の女神とされ、皇后の渡海をその「導きの力」で助けたとされています。
2. 「満珠・干珠」の伝説と地名・遺産
神功皇后の伝説における最重要アイテムである「潮の満ち引きを操る2つの珠」についても、和布刈神社および関門海峡周辺には具体的な「モノ」と「場所」として記録が残っています。
* 満珠(まんじゅ)・干珠(かんじゅ):
龍神より授かったとされるこの2つの珠は、現在も和布刈神社の御神宝として大切に保管されているとされています(社伝)。
* 満珠島・干珠島:
和布刈神社の目の前に浮かぶ2つの無人島です。伝承では、皇后が戦いを終えてこの珠を海に返したところ、島になったとされています。
※事実関係の補足:島そのものは対岸(下関・長府)にある**忌宮神社(いみのみやじんじゃ)**の飛び地境内となっていますが、和布刈神社からもその姿を拝むことができ、海峡を挟んで双方の神社がこの「珠」の伝説を共有・継承しています。
3. 周辺地名と神功皇后の関係
門司および北九州エリアの地名には、神功皇后の行動や持ち物に由来するとされるものが点在しています。
* 和布刈(めかり):
地名および神社名の由来は、前述の通り神功皇后が「和布(ワカメ)」を「刈」ったという行為そのものです。
* 甲宗(こうそう) - 甲宗八幡神社:
和布刈神社の南、門司区旧門司にある甲宗八幡神社には、神功皇后が着用していたとされる**「甲(かぶと)」**が御神体として祀られています。「甲(かぶと)の宗(おさ・もと)」であることから「甲宗」という社名になったと伝えられています。
* 早鞆(はやとも):
海流が「早い」瀬戸(海峡)という意味ですが、神功皇后がここで禊(みそぎ)や神事を行った場所として、神聖視されてきました。
結論
事実関係を整理すると、和布刈神社は神功皇后の**「凱旋記念碑」であり、かつ皇后自身が執り行った「祭祀の継承機関」**としての性格を持っています。
単に「伝説がある」というレベルを超え、1800年以上続く「ワカメを刈る」という具体的な儀式や、「甲(かぶと)」という物証(御神体)への信仰を通じて、皇后の足跡がこの地域のアイデンティティそのものとして機能していると言えます。