🌟 枝光八幡神社の由来:年代別解説と神功皇后の伝説 🌟
福岡県北九州市八幡東区枝光に鎮座する枝光八幡神社の由来について、年代順に整理し、特に神功皇后(じんぐうこうごう)にまつわる伝説を詳しく解説します。
📅 年代別に見る枝光八幡神社の主な歩み
| 年代 | 出来事・解説 |
|---|---|
| 平安時代末期 | 1194年頃(御創建)
枝光八幡神社は、豊山八幡神社(とよやまはちまんじんじゃ、八幡東区)の分霊を奉遷(ほうせん:神霊を移し祀ること)して創建されたとされます。1994年(平成6年)には御創建八百年祭が執行されています。 |
| 江戸時代初期 | 1627年(寛永4年)
秋に現在の地に社殿が再建されました。 |
| 明治時代 | 時期不詳
村社に定められました。 |
| 大正時代 | 1918年(大正7年)
諏訪山の地にあった諏訪神社を合祀しました。現在の社殿は、この年に氏子の浄財の寄進により建立されました。 |
| 1926年(大正15年) | 県社に列せられました。 |
| 平成時代 | 1994年(平成6年)
御創建八百年祭を執行しました。 |
👸 神功皇后にまつわる由来の詳細
枝光八幡神社は、北九州市八幡地区の総鎮守である豊山八幡神社をルーツとしています。この地域一帯、特に八幡(やはた)の地名の起源には、神功皇后の伝説が深く関わっています。
1. 「八幡」地名の発祥と神功皇后
* 約1800年前、第十四代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后であった神功皇后が、三韓征伐(新羅などへの遠征)の前にこの地を訪れたと伝えられています。
* 皇后は、当社(豊山八幡神社)が鎮座する山に、天下が豊かになることを願い弓矢を納め、「豊山(ゆたかやま)」と名付けた、とされています。
* その後、皇后の故事にちなみ、この地域一帯は「やはた」と呼ばれるようになり、これが八幡(やはた)の地名の発祥とされています。
2. 地域に広がる神功皇后の伝説
神功皇后は、夫の仲哀天皇の死後、お腹に後の応神天皇を宿したまま三韓征伐へ赴き、帰国後に出産したとされる伝説上の人物です。北九州には、皇后にまつわる様々な地名や神社の由来が残されています。
* 出産を遅らせるための石
* 皇后は、朝鮮出兵に際し、出産を遅らせるために石を腹に当てて冷やした、または鎮懐石と呼ばれる石2個を腰に巻きつけ、15ヶ月まで出産を遅らせたという伝説があります。この伝説は、安産の象徴である岩田帯の起源とも伝えられています。
* 皿倉山(さらくらやま)の地名由来
* 神功皇后が皿倉山に登り、下山する際に日が暮れて「更に暮れたり」と言ったことから、この一帯が「更暮山」または「更暗山」と呼ばれ、それが「更倉山」を経て「皿倉山」に変化したという伝説が残っています。山頂近くの国見岩からは、皇后が遠賀・小倉・下関方面を国見したとされています。
枝光八幡神社は、神功皇后の故事を起源とする豊山八幡神社から分霊された社であり、地域の歴史と深い関わりを持っています。