福岡県北九州市小倉北区にある**到津八幡神社(いとうづはちまんじんじゃ)**は、古代の神功皇后の伝説に深く関わる由緒を持つ古社です。特に安産の神として信仰を集めてきました。
📅 年代別に見る到津八幡神社の由来と歴史
到津八幡神社の歴史は、伝承では神功皇后の時代に遡り、その後の時代において八幡信仰と結びつき、地域の中心的な神社として発展しました。
| 年代 | 出来事・主な流れ |
|---|---|
| 古代(伝承) | 神功皇后が三韓征伐から帰国後、当地に船を着けられたことに由来するとされます。皇后の**和魂(にぎみたま)を祀る祠が創建されたのが、神社の起源と伝えられています。社家では欽明天皇の時代(約1450年前)**に草創の年忌を伝えています。 |
| 平安時代末期 | 文治4年(1188年)、後鳥羽上皇の命により、大分県の宇佐神宮から八幡大神が勧請(かんじょう)されました。これ以降、到津八幡神社と呼ばれるようになり、企救郡(きくぐん)の大社として尊崇されました。 |
| 戦国時代 | 永禄4年(1561年)頃、戦国大名大友宗麟の宇佐八幡宮攻めなど、戦乱によって神社は荒廃しました。この時期、宇佐八幡宮の神官たちが到津の地へ避難し、一時的にこの地に留まりました。 |
| 江戸時代初期 | 小倉城主となった細川忠興(慶長5年/1600年頃)や、その後の小笠原忠真(寛永9年/1632年)ら歴代藩主から**「小倉城の産土神(うぶすながみ)」**として厚く信仰されました。本殿・拝殿などが再建・整備され、神領も寄進されました。 |
| 江戸時代中期以降 | 宝暦10年(1760年)には小笠原忠眞により本殿・幣殿・拝殿などが再造されました。また、小倉藩や水戸藩にゆかりの深い勘定稲荷神社と錦春稲荷神社が合祀されました。 |
| 近現代 | **明治6年(1873年)**に郷社に列せられ、**大正14年(1925年)**には県社に列せられました。現在の社殿は昭和49年(1974年)に大修理されたものです。 |
👩 神功皇后(じんぐうこうごう)にまつわる由緒(詳しく)
到津八幡神社は、神功皇后の伝説が神社の根幹を成しています。
1. 「到津」の地名と創建の由来
* 船が津に「到った」場所:
* 神功皇后が新羅(三韓)征伐から帰還し、筑前国宇美で皇子(後の応神天皇)を出産した後、長門国(山口県)の豊浦宮(とようらのみや)へ向かう途中に、皇后の**御座船(ござぶね)がこの地に「到(いた)り着いた」**と伝えられています。
* この故事から、この地は**「到津(いとうづ)の津(港)」**と呼ばれるようになり、地名の起源となりました。
* 皇后の和魂を祀る:
* 船の着岸後、この霊跡に**神功皇后の和魂(にぎみたま)を祀る祠(ほこら)**が建てられました。これが到津八幡神社の最も古い起源とされています。
2. 安産・育児の神としての信仰
* 安産を願う人々:
* 神功皇后は、皇子(応神天皇)を身ごもりながら戦勝し、無事出産したという伝説から、安産・子育て・武運長久の神として広く信仰を集めました。
* 皇后の御霊を祀るこの神社には、特に安産を願う人々が多く参拝するようになりました。
3. 「産川(うぶかわ)」の伝説
* 産湯に使われた川:
* 神社の前を流れる板櫃川(いたびつがわ)は、神功皇后がこの川の水を汲んで皇子の産湯に使ったという伝説が残っています。
* この伝説から、板櫃川は別名**「産川(うぶかわ)」**とも呼ばれ、この川の水を汲むことで安産を願う風習が生まれました。
* 現在も、川の付近には**「産川町(うぶかわまち)」**という地名が残っており、伝説を今に伝えています。