「三韓征伐」の起点を考える上で、神功皇后が日常的にどこに居住していたかは重要になります。

記紀(『古事記』『日本書紀』)の記述と、後世の伝承・考古学を整理してみます。



1. 記紀における居住地


仲哀天皇との時代

仲哀天皇と神功皇后は 筑紫(福岡県東区・香椎宮付近) に行幸し、ここで天皇が崩御したと記されています。

つまり 九州・香椎宮あたりに一時的に滞在・居住していたことは確かです。


天皇亡き後(摂政期)

神功皇后は、仲哀天皇崩御後に「大和」へ帰還し、政務を摂ったとされます。

『日本書紀』には、大和の橿原宮・難波の宮(大阪付近) などで政務を行った記録があります。



2. 主な伝承地


九州

香椎宮(福岡市東区) … 仲哀天皇崩御の地で、しばらく居住したとされる。

宇美八幡宮(福岡県糟屋郡宇美町) … 神功皇后が応神天皇を出産したと伝わる地。

これらから、妊娠中~三韓征伐時は九州に生活拠点を置いていたと考えられる。


大和(奈良)

橿原周辺(奈良県橿原市・磯城郡あたり) … 大和政権の中心地。

広瀬・河内(大阪府) … 摂政として政務を行った地と伝わる。



3. 考古学的裏付け

奈良県・大阪府を中心とする古墳群 … 応神天皇以降の大王墓は大和・河内に集中。

神功皇后自身の陵墓は、宮内庁によって 奈良県奈良市山陵町の「狹城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)」 に治定されています。



4. 結論


神功皇后は次のように生活拠点を移したと考えられます。

1. 大和政権の皇后としては奈良(大和)を中心に生活

2. 仲哀天皇の遠征に随行し、九州・香椎宮(福岡市)に長期滞在

3. 仲哀天皇崩御後は、九州に拠点を置いて三韓征伐を指揮

4. その後、大和に帰り、摂政として政務を執った