神功皇后の三韓征伐(さんかんせいばつ)は、『日本書紀』や『古事記』に記された伝承で、仲哀天皇の皇后である神功皇后が朝鮮半島の新羅、百済、高句麗(いわゆる「三韓」)を服属させたとする日本初の対外戦争の物語です。ただし、この出来事の史実性については議論が多く、考古学的・歴史学的観点から虚構や誇張の可能性も指摘されています。以下、質問に沿って経路、時期、場所、関与した人物、方法、理由を具体的に解説します。

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### 1. **どのような経路を辿ったか**
『日本書紀』によると、神功皇后は以下のような経路を辿って三韓征伐を行ったとされています:

- **出発地:筑紫(福岡県)**
  - 仲哀天皇の崩御後(200年頃とされる)、神功皇后は福岡県の橿日宮(香椎宮)を拠点に準備を進めました。出航の準備は対馬の和珥津(わにつ)で行われ、ここから船団が出発しました。
- **経由地:対馬**
  - 対馬は朝鮮半島への海上ルートの中継点として重要でした。神功皇后は対馬で軍を整え、航海の準備を進めました。『日本書紀』では、住吉大神の神託を受けて対馬から出航したと記載されています。
- **到達地:朝鮮半島(新羅)**
  - 神功皇后の船団は対馬海峡を渡り、朝鮮半島南部の新羅に到達しました。具体的には、新羅の王都(現在の慶州市付近)に進軍したとされます。新羅が降伏した後、百済や高句麗も日本の支配下に入ったとされていますが、戦闘の詳細は新羅に集中しています。
- **帰国ルート**
  - 征伐後、神功皇后は朝鮮半島から筑紫(福岡県)に帰還し、宇美(福岡県宇美町)で応神天皇を出産。その後、畿内(近畿地方)へ向かい、香坂皇子や忍熊皇子の反乱を平定しながら帰国しました。帰路では播磨(兵庫県)や紀伊(和歌山県)で祭祀を行い、各地に神社を創建したと伝えられています。

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### 2. **いつ行われたか**
『日本書紀』に記載された年代は以下の通りですが、史実性には疑問が残ります:

- **仲哀天皇9年(200年)**:仲哀天皇の崩御後、神功皇后が新羅征伐の準備を開始。
- **神功皇后摂政元年(201年)**:対馬から出航し、新羅を攻撃。『日本書紀』ではこの年内に新羅が降伏し、百済と高句麗も朝貢を誓ったとされます。
- **継続的な干渉**:神功皇后摂政5年(205年)、49年(249年)、62年(262年)などに新羅への再征伐や外交的干渉が行われたと記録されています。

ただし、『日本書紀』の紀年は干支を基にしたもので、120年(2運)繰り上げられている可能性が指摘されています(井 SDweb:1⁊)。このため、実際の年代は4世紀後半(364年~391年頃)とする説が有力です。『三国史記』や『広開土王碑』に基づく朝鮮側の記録では、倭国の侵攻が364年、391年、405年などに記録されており、これらが三韓征伐の史実的な背景とされる場合があります。

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### 3. **どこで行われたか**
三韓征伐の主な舞台は以下の通り:

- **朝鮮半島南部(新羅)**:新羅の王都(現在の韓国・慶州市付近)が主要な戦場とされています。『日本書紀』では新羅が戦わずして降伏したとされ、具体的な戦闘場所は曖昧です。
- **百済・高句麗**:『日本書紀』では新羅降伏後に百済と高句麗も服属したとされますが、戦闘の詳細は記載されていません。『三国史記』では、倭国が金城(慶州市)や明活城、風島(釜山付近)などを攻撃したとされます。
- **関連地域**:帰国後の宇美(応神天皇出産地)、対馬(出航地)、播磨、紀伊(祭祀地)など、征伐に関連する神社や伝承が残る場所が日本国内にも多く存在します(例:香椎宮、筥崎宮、宇美神社など)。

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### 4. **どんな人達と関わったか**
神功皇后の三韓征伐に関わった主要な人物は以下の通り:

- **神功皇后(気長足姫尊)**:征伐を主導した伝説的な指導者。神懸りによって神託を受け、軍を率いたとされます。
- **武内宿禰**:神功皇后の重臣で、祭祀や軍事行動を補佐。『日本書紀』では新羅征伐の際の重要な補佐役として登場し、帰国後の反乱鎮圧にも活躍。
- **住吉大神**:航海の守護神として神功皇后を導いたとされる神。住吉大社(大阪市)の祭神。
- **新羅王(波沙寐綿)**:『日本書紀』では抵抗せずに降伏し、人質として王子・微叱己知波珍干岐を送ったとされます。
- **葛城襲津彦**:神功皇后摂政期に新羅征伐や外交使節として活躍した武将。『日本書紀』では新羅の使者を処罰したり、草羅城(慶尚南道梁山)を攻撃したとされます。
- **香坂皇子・忍熊皇子**:神功皇后の帰国後に反乱を起こした仲哀天皇の他の子息。神功皇后と武内宿禰によって平定された。
- **百済・高句麗の使者**:『日本書紀』では百済の久氐(くてい)や新羅の汗礼斯伐(うれしほつ)らが朝貢や人質交渉に登場。

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### 5. **どのように行われたか**
三韓征伐の方法は、『日本書紀』や『古事記』に基づくと以下のように描かれています:

- **神託に基づく出兵**:
  - 仲哀天皇8年(199年)に神功皇后が香椎宮で神懸りを受け、「新羅を攻めよ」との神託を得ました。仲哀天皇がこれを無視して熊襲征伐に失敗し崩御したため、神功皇后が自ら神主となり、住吉大神の神託を受けて新羅征伐を決行。
- **航海と戦闘**:
  - 神功皇后は妊娠しながら対馬から船団を率いて朝鮮半島へ渡海。『日本書紀』では、風や魚、海神の助けで順調に進軍し、新羅の王都に到達。新羅王は戦わずして降伏し、朝貢を誓ったとされます。戦闘の詳細は少なく、ほぼ神話的な描写です。
  - 出産を遅らせるため、月延石や鎮懐石を身に着け、帰国後に宇美で応神天皇を出産。
- **再征伐と外交**:
  - 神功皇后摂政期には、新羅が朝貢を怠ったり、百済の貢物を奪ったとして、葛城襲津彦や荒田別、鹿我別らが派遣され、新羅や加羅などの七国を平定したとされます(例:369年、382年)。これらは小規模な戦闘や外交的圧力だった可能性が高いです。
- **祭祀と伝承**:
  - 征伐の成功を記念し、香椎宮、筥崎宮、宇美神社、住吉大社など、多くの神社が創建され、神功皇后や関連神が祀られた。

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### 6. **なぜそのように行われたか**
三韓征伐の理由は、伝承と歴史的背景から以下のように考えられます:

- **神託による動機**:
  - 『日本書紀』では、住吉大神や天照大神の神託が征伐の直接的な理由とされています。新羅が金銀財宝に富む国として示され、熊襲よりも価値ある目標として選ばれたとされます。これは、大和王権の権威を高めるための神話的正当化と考えられます。
- **地政学的・経済的理由**:
  - 4世紀の朝鮮半島南部は鉄資源が豊富で、ヤマト王権にとって重要な交易対象でした。伽耶(加羅)や百済との同盟を強化し、新羅を牽制することで、鉄や先進技術の確保を目指した可能性があります。
- **政治的理由**:
  - 神功皇后の征伐は、大和王権の統一と権力強化のための象徴的な事業だった可能性があります。帰国後の香坂皇子・忍熊皇子の反乱鎮圧は、国内の政治的安定を図る意図もあったと考えられます。
- **伝承の創作背景**:
  - 7世紀後半の白村江の戦い(663年)での大敗後、ヤマト王権は新羅への対抗意識から「かつては三韓を従えた」という伝説を創作し、国民の士気を高めようとした可能性があります。神功皇后の物語は、斉明天皇の事績をモデルに、息長氏などの豪族が政治的影響力を強化するために誇張されたとする説もあります()。[](https://www.shigesai.net/entry/2022/06/03/000000)

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### 7. **史実性と批判的考察**
- **史実の可能性**:
  - 『三国史記』や『広開土王碑』には、4世紀後半(364年、391年、405年)に倭国が新羅や百済に侵攻した記録があり、局地的な戦闘や交易のための軍事行動はあったと考えられます。ただし、『日本書紀』の「三韓全てを服属させた」という記述は誇張で、新羅側では倭軍を撃退した記録が多く、決定的な勝利はなかったとされます()。[](https://rekishi-shizitsu.jp/sannkannseibatsu/)
- **虚構の要素**:
  - 『日本書紀』の記述には神話的要素(魚が船を運ぶ、海神の助力など)が多く、4世紀当時の航海技術や軍事力から大規模な遠征は困難だったとされます()。また、冬季の対馬海峡渡海は気象的に不可能との指摘もあります。[](https://www.shigesai.net/entry/2022/06/03/000000)
- **政治的意図**:
  - 神功皇后の物語は、7世紀後半から8世紀初頭にヤマト王権が新羅との緊張関係の中で、過去の栄光を強調するために創作された可能性が高いです。特に、息長氏や宇佐神宮の影響で神功皇后が軍神として祀られ、伝説が強化されました()。[](https://www.shigesai.net/entry/2022/06/03/000000)

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### 8. **結論**
神功皇后の三韓征伐は、筑紫から対馬を経て新羅に渡り、200年頃に新羅を降伏させ、百済・高句麗も従えたとされる伝承ですが、史実としては4世紀後半の小規模な戦闘や外交的干渉が基盤と考えられます。武内宿禰や葛城襲津彦らが補佐し、神託に基づく神話的要素が強調され、鉄資源や政治的権威の確立を目的とした可能性があります。しかし、記述の誇張や7世紀以降の政治的意図による創作の可能性が高く、史実と虚構が混在した物語として理解する必要があります。

**出典**:
- 『日本書紀』、『古事記』、『三国史記』、『広開土王碑』
- 歴史の史実研究所()[](https://rekishi-shizitsu.jp/sannkannseibatsu/)
- 理系脳で紐解く日本の古代史()[](https://www.shigesai.net/entry/2022/06/03/000000)
- 日本の歴史アップデート()[](https://www.nukumori1.com/jingukougou/)
- 歴史まとめ.net()[](https://rekishi-memo.net/kofunjidai/empress_jingu.html)