
この話はさまざまな人物の人生が交差している
中心で動いているのは、
堀越二郎氏(零戦の設計者)
堀辰雄氏(風立ちぬの原作者、菜穂子のモデルは妻)
宮崎駿氏も今回いろいろな苦悩があったようだ。
宮崎さんは今までの作品、人生も交差していると解釈しています。
久しぶりに映画館で
「また見たいな」と思った作品です。
あまり、書いてしまうと見る楽しみがなくなってしまうのでこの辺で
ぜひ見て欲しいです。
・・・・
戦争は私にとって身近にいつもあった
鹿児島出身で知覧があり....
少し目をそむけていた面もありました。
私の中では「3人」が影響している
もう祖母は亡くなってしまったのだけど
最終的に痴呆がつよくなり病床で、
満州から引き上げてくる船の船底で身を寄せていた時の話を
よく話していたと親父が言っていた。
「今、宮崎は空襲であぶないから」「あそこは焼けた」
そんなことを言葉を繰り返し言っていたと....
もしその時の船に幼い親父が乗っていなかったら
私も今この世にいないかもしれない
そのようなことがあって親父の実家の隼人町に根を下ろしたのだ。
もう一人は中学校の(加治木中学校)の時に英語の教師だった
上之園先生(漢字あってるかな)「ジョンソン」と呼ばれていた
いや、呼べと言っていた。
記憶は少しあいまいなのだけど、軍隊での上官からの体罰の話が耳に残っている
上から斜めに拳で強く殴られすぎて頬から○がでて来る話
なんで英語の教師になったのかな?詳しく聞いておきたかった。
最後は、
昔車で遊んでいた時期があって
ボロボロな愛車に乗っていたりして、よく末吉町の鉄工所の親父さんにはお世話になった
その叔父さんは中島飛行機で零戦を作っていた人だった。
86のリアのラテラルロッドが折れたまま末吉までいったことを覚えてる
サンダーのかけ方が悪いと「わぁいもー」(おまえは!)といって
サンダーを取り上げられ手本を見せてくれたことを覚えてる
とても厳しくそしてやさしかった・・
まとまらない。。。。
そのような記憶があり今の自分があるのだな
一人で生きてきたわけではないのだ。
「風はふいてるか?ではいかねば、」
映画館で涙して、思い出しまた涙した。