↑過去の記事の中から群馬のどこで撮ったのかわからないこんにゃく畑の画像が出てきました。

 

昨夜はGoogleとNORAD両方のサンタ追跡を観て、

 

「サンタの現在地が違うじゃん!」

 

と突っ込みを入れながら床に就きました。

 

さて、表題の本ですが。

 

 

 

 

先日読んだ本「近江から日本史を読み直す」の後書き広告の中で紹介されていた本で、面白そうと思い、

図書館で拝借しました。

 

群馬に行くとこんにゃくの話は欠かせない。

 

でも自分的にはもう少し知識に厚みが欲しかったので読んでためになりました!

 

こんにゃくは秋に一度収穫して蔵にしまう、しかもこんにゃく製品を作れるようになるまでは3年かけて栽培する必要があるということは知っていましたが、

冬になるたび一度掘り起こすのはこんにゃくいもが寒さに弱いから、というのは初めて知りました。

 

しかもこんにゃくいもは傷みやすいため、昔は秋から冬にかけてしか食べられない物でした。

 

それを製粉の技術を開発して1年中食べられるようにしたのが江戸時代後期の茨城県大子町の農民、中村藤右衛門(とうえもん)でした。

 

つまり、最初に本格的なこんにゃくの栽培が行われたのは群馬ではなく茨城だった訳ですね。

 

大子には藤右衛門を祭る蒟蒻神社があり、4月にはこんにゃくの炊き出しをするそうです。

 

また、福島県の矢祭町でもこんにゃくが盛んだった名残があるそうで、今も入宝坂(いりほうさか)という小さな集落では、

「藤右衛門講」という宴席がかつてのこんにゃく農家の方々によって開かれているそうです(現在ここではこんやくは栽培していないそうです)。

 

群馬にこんにゃくの製法が伝わった経緯は、水戸の天狗党が幕末に下仁田戦争で南牧(なんもく)村に立ち寄ったことが発端だそうです。

 

山間の急斜面に広がる南牧はかつて砥石の産地として知られ、取れた砥石の荷物を下へ降ろした所が「下仁田」と呼ばれるようになったのだそうです(荷があった上の方は「上仁田」と呼ばれた)。

 

 

一時期はこんにゃくの相場がぐわっと上がり、南牧の狭い急斜面の上へ上へとこんにゃくの段々畑が続いていたそうですが、

その後こんにゃくの一大産地は水はけのよい赤城山麓へ移動。

 

手のひら一杯のこんにゃく粉で鍋一杯分のこんにゃくを作ることができるのですが、昭和25年頃にはその一杯分の粉があれば下仁田の料亭で一晩どんちゃん騒ぎができるほど儲かったということです。

 

また、こんにゃくは意外な用途に使われたこともあります。

 

昔の南牧の子供たちは、こんにゃくでボールを作って遊んでいたそうですし、戦時中日本軍が考えた奇策である風船爆弾には、

和紙とこんにゃくが使われていたそうです。

 



大正時代には、軟膏薬や通風の薬、天幕、食器カバー(なんだそりゃ)、オブラート、セルロイドの代用品、雨よけシートなどにも使われたそうです。

 

昔は晩秋から翌年の梅雨入り前くらいまで精粉作業が続いていたのですが、

現在では機械化が進み、11月と12月の2か月だけで1年分のこんにゃく粉を引けるようになりました。

 

昔に比べると相場も下落してしまっている。

 

しかもこんにゃくとしての食材としての価値に筆者も疑問を感じています。

 

おいしい訳でも栄養がある訳でもない。

 

なのに現在まで生き残っている、こんにゃくは不思議な食べ物ですよね。

 

しかも石灰を混ぜないとこんにゃくは出来上がらない。

 

誰がこんな製法を考え付いたのか?


この辺は謎なところですが、その昔短気な人が、

煮ても焼いても食えないこんにゃくいもに腹を立て、囲炉裏の鍋にいもを投げ入れてふて寝でもしている内に囲炉裏の灰と合わさって偶然出来上がったんじゃないか、

と推測する人もいるそうです。

https://konnyaku-park.com/ 


群馬県の観光名所としては、こんにゃくパークがおすすめですよ❗