自分史その10 「夢がやっと叶った」―香港、東京、そして大学教員へ― | 書呆子のブログ

自分史その10 「夢がやっと叶った」―香港、東京、そして大学教員へ―

2000年5月、翌年の3月から3年の予定で夫が香港の領事館に領事として赴任する辞令が出た。結婚後すぐニューヨークへの転勤を断ったからもう一生海外転勤はないはずだったが、人事院の規則が変わり、他省庁への出向経験がないと昇格できないようになり、夫の職位だと国内の出向先も限られることから、外務省に出向する今回の人事になったので、断れなかった。

仕事を辞めたくなかったので当初は単身赴任してもらうつもりだったが、迷った末、銀行を退職して同行した。香港大学に中国法専門の法学修士課程があるのを知り、企業の中国への進出が激増する中需要があるのに専門家の少ない中国法を勉強できるのはチャンスと思えたこと、かつての留学で初めて日本文化のすばらしさに目覚め、それを外国人に伝えるボランティアをしたいと望んでおり、外交官夫人になればそれが実現できること、子供がほしかったことが理由である。銀行の仕事はストレスが多く、全快後も薬なしで眠ることはできなかったが、現金なもので、仕事を辞めると決めたとたん薬なしで安眠できるようになったのである。結局、今でも不妊に悩まされ続けているが。

香港では外交官夫人の公務のほか、前述した大学の点字サークルでの経験を生かして「香港点友会」というサークルを結成して、点字講習会を開いたり、日本人倶楽部のバザーで点字名刺をその場で作って販売し、収益を寄付するという活動を行ったりした。

もちろん、予定通り香港大学で中国法修士号をとった。他にも北京語・広東語をマスターし、中国茶も免状を取得した。

私の毎日は殺人的に忙しかった。朝7時に家を出て、北京語の学校に行き、お昼まで授業、地下鉄の中でおにぎりをほおばって、午後は、広東語、中国茶、二胡、太極拳、中国画、中国料理等の授業を二つか三つ掛け持ち、夜は香港大学の授業を3時間受ける、といった感じである。

大学院修了後は、男女平等が徹底した香港でずっと働きたいと思い、香港の弁護士資格取得の勉強を始めたが、すぐ夫が本省の都合で当初予定の任期より早く帰国することになり、1年8ヶ月の滞在を惜しみながら、昨年末に帰国。

次の地獄は今年の2月に訪れた。香港からの急な帰国は、本省の都合だけでなく、私のせいでもあったということがわかったのだ。思い当たることはたくさんあった。批判を浴びるだけあって、在外公館の腐敗・でたらめぶりは目にあまり(守秘義務に触れるので詳しくは書けないが)、私は堂々と批判していたし、また偏狭な日本人村を代表する日本人倶楽部という邦人団体にも物申していた。たとえば、事務局長の日本人男性が倶楽部の主催する講座の紹介で「このパソコン講座は超入門なので『レディースコース』と名付けたいですね」というセクハラ記事を会報に書いたことに対しては、書面で抗議を申し入れ、それでも謝罪しないので倶楽部の法的代表者である某銀行の香港支店長に書留で抗議文を送って対処させたり、事務局長が自分のミスを弱い立場の中国人講師に押し付けその嘘をごまかすため嘘に嘘を重ねたことも容赦なく追及して、事務局長が総領事に泣きついて夫に注意が来るという公私混同もあった。また、恒例のバザーで手作り食品の販売について正規の認可手続きを得ていないこともまた追及して、「じゃあ点字名刺の販売は認めません」という嫌がらせをされそうになったり、日本人小学校に貼りだされていた教師が生徒の詩を清書して踊り場に掲示していたものの中に、「ジャンプ」を「ジャップ」と書き間違うというしゃれにならないミスがあることを指摘したり、とにかく、「目立たないこと」と至上命題としていた日本人村、外交官村で、あまりにも目立ちすぎる行動をとってしまったのが、「夫ごと帰らせちゃえ」という判断につながったらしいのだ。

 私は夫のキャリアに傷をつけてしまったことがひたすら申し訳なく、泣きの涙で毎日を過ごした。改革するといいながら、こんな卑怯な人事をする外務省、こんな汚い世界にはもう一刻も生きていたくないと思った。私がいくら暗い修羅の道を歩んでも、夫だけはいつも光り輝く場所にいてくれたから私の魂も救われたのに、今度は夫までも暗渠に引きずり込んでしまった、と。

 私は夫のキャリアに傷をつけてしまったことがひたすら申し訳なく、泣きの涙で毎日を過ごした。改革するといいながら、こんな卑怯な人事をする外務省、こんな汚い世界にはもう一刻も生きていたくないと思った。私がいくら暗い修羅の道を歩んでも、夫だけはいつも光り輝く場所にいてくれたから私の魂も救われたのに、今度は夫までも暗渠に引きずり込んでしまった、と。

 それでも自殺しなかったのは夫の愛情のおかげだろう。夫はこの真相を知った後も私に隠し通そうとしてくれた。しかし、ショックで、生まれて初めて不眠や早朝覚醒を体験しながらも(笑いながらあなたのうつの時の気持ちが初めてわかったよといってくれた)、私にばれないように気を使っていた。どうしてわかったかというと、冗談めかして「あたしのせいで帰国になっちゃったんだったりして」といった時に夫の顔色が変わったので一晩かかって問い詰めたらやっと白状したのである。私は罰当たりにも「香港弁護士資格取得の計画があなたの仕事のせいで挫折した」と文句をいっていたのに、「真相を知ってあなたが傷つくくらいなら、そんな風に恨まれた方がましだと思った」というのである。私が逆だったら「あなたのせいで私の出世がだめになるじゃない!」と非難していたに違いない。夫の人間としての大きさを改めて感じた。

泣き暮らす毎日も、徐々に沈静化した。ちょうどその頃発生したSARS騒動の対応で、設立以来の危機を迎えた香港領事館を見て、不遜な言い方かもしれないが、突然の帰国は「ノアの箱舟」だったのかも…と思えてきたからだ。友人も「急な帰国は神の配慮」といってくれた。

気を取り直して3月からは外資系の経営コンサルタント会社に就職したが、すぐに現在教えている大学の話がまとまり、6月に念願だった大学教員になることができた。

法科大学院の設立申請締切を6月末に控え、実務家出身の教員をどの大学も求めていた時期に日本にいたことがラッキーであった。当初の予定通り2004年の3月に帰国しても、その年の4月にスタートする法科大学院の人事は確定してしまっており、こんなにスムーズには就職できなかっただろう。この点でも帰されて却ってラッキー、と思う。

こんな私のジェットコースターのような人生も、若い学生を育てる上ではプラスになると信じている。自信を持っていえることは、どんな苦境にも一度も逃げをうたなかったことだ。学生が、とくに今の日本ではまだまだ虐げられている女子学生が、私を見て、「人生も悪くない」と思ってくれればこれに過ぎる幸せはない。

という自分史を3年前この大学に赴任したばかりの頃書いていたのだが、大学というところは決して理想の職場ではなかった…ということで、5月30日の最初のエントリーに戻ります。

私の人生、いつになったら落ち着くのやら…。