今回は、前回の続きの記事となります。前回は、金日成が権力を握ったところまででしたね。

 前回のクライマックスは朝鮮戦争でしたが、今回のクライマックスは主体思想となります。

 

1.千里馬運動

 8月宗派事件をきっかけに内政的には金日成及び満州派への権力集中を進めてソ連と中国の影響を排除しつつも対外的にはソ朝友好協力相互援助条約と中朝友好協力相互援助条約で軍事同盟を結んで中ソとの決定的な対立を回避することによって朝鮮民主主義人民共和国指導部は独自路線を進むことになりました。

 

 この間、農業の集団化、産業の国有化が進められ、1956年12月金日成は「千里馬運動」を朝鮮労働と全員会議で提唱しました。千里馬運動とは、経済発展を促進し、社会を大躍進させようという運動のことです。千里馬とは一日に千里を走る伝説上の馬のことで、その千里馬の勢いにあやかって命名されました。北朝鮮初の共産主義的大衆運動と呼ばれ、金日成が1956年に降仙製鋼所を直接訪問し、より多くの鋼材を生産することを指示したのが千里馬運動の直接的な始まりでした。降仙製鋼所は、後に千里馬製鋼連合企業所に改称されました。

 

2.中ソ対立

 1960年代になると、隣国の中華人民共和国とソ連間で対立が深まりました。北朝鮮は当初は両国の顔色をうかがっていました。しかし、1962年10月のキューバ危機の頃より親中に傾きました。これに対してソ連は北朝鮮に対する経済援助を打ち切りました。そのため、北朝鮮経済は深刻な打撃を受けました。その後、1966年には中国で文化大革命が開始しました。紅衛兵などの文革派は金日成を修正主義者と批判しました。そのため、北朝鮮と中国との関係が悪化しました。そこで、石油の入手などを図って北朝鮮はソ連に接近しました。こうした政策をとるなかで、1950年代までの時期と比べ経済援助の受入額が激減し、計画経済の行き詰まりと相まって経済危機が深刻になりました。

 

 一方で、1960年代の韓国は、1961年の5・16軍事クーデターにより権力を握った朴正煕元大統領による開発独裁のもとでアメリカ合衆国や日本との関係を深め、アメリカ軍の同盟軍として韓国軍をベトナム戦争に派兵するなどして入手した多額の資本を受け入れながら急速に工業化を進めていきました。これが、いわゆる漢江の奇跡です。そのため、中ソの資金援助を当てにできない状況下で、北朝鮮は一国社会主義体制を形成して韓国に対抗する必要に迫られました。

 

3.主体思想の確立

 こうした中、1960年代半ばより北朝鮮は「主体思想」を示し、「思想における主体、政治における自主、経済における自立、国防における自衛」の重要性を唱え、民族主義的・個人崇拝的な国家運営へと傾いていきました。なお、主体思想は自国の自主性維持に苦悩していた金日成が、「我々の社会主義」に言及する中で登場し、金正日によって体系的に叙述されました。この過程で、モスクワ国立大学哲学博士である黄長燁が哲学的緻密化に貢献しました。後に金日成により性格づけられ、1972年の憲法で「マルクス・レーニン主義を我が国の現実に創造的に適用した朝鮮労働党の主体思想」と記載されました。朝鮮人民が国家開発の主役であり、国家には強力な軍事的姿勢と豊富な国家的資源が重要、という理論です。

 

 「主体」は、哲学およびマルクス主義の用語です。しかし北朝鮮では「自主独立」や「自立精神」を意味する場合も多いです。主体思想は「常に朝鮮の事を最初に置く」との意味でも使われています。金日成は、主体思想は「人間が全ての事の主人であり、全てを決める」という信念を基礎としている、としました。知られている北朝鮮での「主体」への最初の言及は、1955年12月28日の金日成による演説『思想的研究における教条主義および形式主義の除去と「主体」の構築」』です。金日成はこの演説で、党の宣伝担当者はソビエト連邦から思想や慣習を輸入するのではなく、朝鮮自身の「我々式」の方法によって朝鮮革命を前進させるべきであると論じました。これは、スターリン批判の国内への波及を恐れたため、金日成が作ったものと考えられています。

 

 「朝鮮で革命を行うために、我々は朝鮮人民の慣習と同様に、朝鮮の歴史や地理学も知るべきである。それらが彼らに適合し、彼らの生まれ故郷や祖国への激しい愛情を彼らに呼び起こすことを通じてのみ、我々の人民を教育する事が可能になる。」 by金日成

 

 1950年代後半、金日成はマルクス・レーニン主義の彼自身の見解の構築を考えていました。その時、首席思想相談役の黄長燁は、「主体」がマルクス・レーニン主義の独創的な発展とみなせる事を発見しました。その時、この概念は社会的に定義された信条として構築されました。1958年までに金日成が北朝鮮での支配を確立すると、「主体」は人民による彼への献身を示す目的で使い始められ、金日成やその家族の歴史や指導者としての正統性への美化など、個人崇拝が進められました。

 

 冷戦の期間中、北朝鮮は主体思想と自立の原則を他国、特に非同盟諸国への経済発展の方法として推進しました。1967年から自己への権力集中を強化していたルーマニアの元大統領であるニコラエ・チャウシェスクは、1971年、アジア諸国訪問時の北朝鮮の思想的な動員力と大衆による賞賛に影響を受けていました。

 

 1972年の憲法改正で、北朝鮮は公式な国家思想をマルクス・レーニン主義から主体思想へと置き換えました。これは中ソ対立の影響でもありました。主体思想は「マルクス・レーニン主義の創造的な適用」と定義されました。金日成はまた、主体思想は全てのスターリン主義国家を継承する、計画的な位置づけであると説明しました。

 

 1977年8月、朝鮮労働党は主体思想に関する国際的会議を初めて主催しました。その中では、日本のチュチェ思想国際研究所と、スペインの朝鮮友好連盟が注目されました。金日成は1994年の死去以後も崇拝されました。例えば、1998年の憲法改正で「永遠の主席」とされました。後継者の金正日は「金日成主席にならぶ偉大な指導者・民族の太陽」と呼ばれるようになりました。朝鮮の歴史は1866年に遡り、アメリカ帝国主義に対して闘争する「英雄的な」金一族と、その祖先について書き直されました。金一族への崇拝は、主体思想にり支持されました。当然、金日成は全人民の「最上の指導者で太陽」とされました。

 

 主体思想は中ソ対立による政治的緊張下で、全体的な思想として段階的に形成されていきました。すなわち金日成は北朝鮮国内におけるソ連派・延安派の粛清とソ連、中国の影響の排除と並行して、マルクス・レーニン主義の独自解釈を進めました。特に、フルシチョフ政権下のソ連共産党第20回大会で「西側諸国との平和共存路線」が打ち出されると、朝鮮半島の解放を国是とする北朝鮮と、ソ連との対立は深まってゆきます。一方、ソ連の平和共存路線を「修正主義」として批判した中華人民共和国は、北朝鮮と接近しました。

 

 

 主体思想は1963年、朝鮮人民軍への「主体」原則の演説により再登場しました。主体思想という言葉は、1965年4月14日に金日成がインドネシアのアリ・アハラム社会科学院で行った演説『朝鮮民主主義人民共和国における社会主義建設と南朝鮮革命』に登場します。演説によると、一国の独立には「思想における主体」「政治における自主」「経済における自立」「国防における自衛」の三要件の確立が必須であり、北朝鮮が保持してきたこの立場が「主体思想」であるとされました。

 

 1966年10月の朝鮮労働党第2回代表者会では主体思想が定式化されました。「帝国主義との徹底闘争」「植民地民族解放運動と国際労働運動の支持」「社会主義政権」「内政不干渉・相互尊重・互恵平等」が北朝鮮の進むべき路線であるとされました。主体思想はその確立期にあって、大国による内政干渉を排除し自主路線を歩むこと、およびマルクス・レーニン主義に対する独自のアプローチをとることを主要な内容としていました。

 

 1967年5月の党中央委員会全員会議では、「唯一思想体系」の確立と、修正主義分子こ排がうたわれました。これにより、金日成と共に抗日パルチザン闘争を戦った甲山派も党内から排除されました。主体思想が金日成の思想と確立されたことにより、党内のイデオロギー的対立は形式的には克服されました。なお現在では、主体思想台に朝鮮人民軍の兵士や平壌市民、大勢の訪朝観光客が観光・崇拝をしています。

 

 主体思想は北朝鮮の自主独立路線と、マルクス・レーニン主義の独自解釈を打ち出しました。やがて、主体思想は首領=金日成の唯一絶対の思想としての地位を確立し、これに対する批判の排除を通じて、金一族の絶対的権力を正当化するイデオロギーとしての色彩を強めていきます。そのことは、金正日への地位の継承の準備という意味も持っていました。

 

 1972年12月27日の最高人民会議第5期第1回会議で改正された朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法では、主体思想が国家の指導指針とされました。同時に国家主席の地位が新設され、憲法上でも金日成に最高指導者の地位が付与されました。1974年には、党の唯一思想体系確立の10大原則が確立しました。主体思想の目指すところを具体化しつつ簡潔にまとめた、社会主義憲法や朝鮮労働党規約を上回る北朝鮮公民の最高規範と位置付けられました。そして、公民に対しては徹底的な教育が行われました。

 

 

1982年の金正日の『チュチェ思想について』によると、国家政策における主体思想の適用の概要は以下の通りです。

1 人民は、思想や政治的には独立し、経済的には自己供給し、国防では自己依存していなければならない。

2 政策は大衆の意思と願望を反映し、革命と建設の中で彼らを完全に雇用しなければならない。

3 革命と建設の手法は、国家の状況に適応されなければならない。

4 革命と建設の最重要作業は、人民を思想的に共産主義者に形成し、彼らを建設作業に動員する事である。

 

 「主体」の視点では、党及び指導者への絶対的な忠誠心を人民に対して要求しました。北朝鮮では、朝鮮労働党と金日成が対象でした。これは、個人崇拝を北朝鮮の実情に合わせて進化させたもので、「領袖は党、党は国家」という標語とともに朝鮮社会への普及を推進しました。そして金日成の死後、金正日指導の下では先軍思想が主体思想と同列に推されたため、「領袖は軍、軍は党、党は国家」という軍国主義的なものへと主体思想は変質しました。

 

 北朝鮮の公式な歴史では、「主体」の最初の適用は千里馬運動です。ソ連と中国の両方からの政治的独立を確実にするために、重工業に焦点を当てた北朝鮮の迅速な経済発展を目的としました。しかし、1928年のソビエト連邦の第一次五カ年計画と同様の中央集権的な国家計画の手法を適用し、毛沢東の第一次五カ年計画や大躍進政策とも部分的には関連がありました。

 

 さらに、経済的自立の願望に反し、北朝鮮は他国からの経済援助に依存し続けています。歴史的には、1991年のソビエト連邦の崩壊まではソビエト連邦からの援助に最も依存していました。朝鮮戦争後の1953年から1963年は「兄弟」諸国からの経済援助や資金に頼り、1953年から1976年はさらにソビエト連邦の産業支援に強く依存しました。なお、主体思想の理論家である黄長燁は、韓国への亡命後の書籍『金正日への宣戦布告』などで、本来の主体思想はマルクス・レーニン主義の適用だが、実際には金一族による独裁政治や個人崇拝に利用されていると批判しました。

 

 1972年12月27日、北朝鮮は新たな憲法を制定した。この憲法は「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」と称され、「主体思想」が記された。独立時の憲法では首都は大韓民国が実効支配していたソウルとされたが、この1972年憲法では公式に平壌に定められました。また、新たに朝鮮民主主義人民共和国国家主席の地位が定められ、これまで首相だった金日成がその地位につきました。

 

 この新体制のもとで金日成主席の息子の金正日が思想・技術・文化の「三大革命」を担い、1974年には正式に後継者として指名された。指導原理としては「マルクス・レーニン主義」を継承しつつ北朝鮮の独自性を加えた「主体思想(金日成主義)」が示され、国家の指導原理となっていきました。この「主体思想(金日成主義)」の解釈権は金日成・金正日が独占しているため、その権力は理念において絶対的に保障されることになりました。また、金一族による世襲支配の方針が明確に示される中でその血統が神格化され、様々な革命神話を通じて一族支配の正統化・絶対化が進められました。

 

 文化面でも、金日成が構想したとされる原作にそった『血の海』『花を売る乙女』が歌劇として上演され、映画に関心のある金正日の指導下でこれらが映画化されました。1960年代末より朝鮮中央テレビが開局したこともあり、テレビ・映画(北朝鮮映画)などのメディアを利用して民衆の価値観を統一することも可能になりました。

 

 一方、この頃、韓国に対して強硬策をとり、1968年には青瓦台襲撃未遂事件が起きています。しかしながら、対立姿勢を打ち出すためには多額の軍事費が必要とされ、民衆には厳しい負担が課されることになりました。そのため、1972-3年に韓国との間でいわゆる南北対話が進められ、南北共同声明が発されたが、人道面での交流を進めようとする韓国と、そもそも韓国を解放闘争の対象とみなし、外国勢力の排除を重視する北朝鮮との間で妥協点を見出すことは難しく、1973年の大韓民国中央情報部(KCIA)による金大中拉致事件の直後に交渉は中断されました。