この世に生を受け、言葉を憶えるにあたり、文法から学びはじめる乳幼児なんてのはあまりいない。
まずは、両親を始めとする大人達に話しかけられ、『音』として言葉を認識し、やがてその『音』を自分で発するようになり、幼稚園で言葉遊びをし、小学校で五十音から始まって、最後に文法がある。
いきなり文法から始め、最後に聞き取りをする子供はあまりいない。
さて、英語それ自体は好きだった。好きだったが、高校に入学してうんざりした。
「なぜ中学校の延長上の、『話せない英語』を、まだやらなければならないのか?」
だが、受験勉強はそんな疑問を持ったら負けである。
それでも、その疑問が拭うことも、かと言って開き直ることのできなかった僕の英語の成績は悪かった。
「なんでこんな勉強で、たまたま予習忘れたからって立たされなければならないのだろう?」
「なんで発音の下手くそな、明らかにカタカナ英語の教師の授業を真剣に受けなければならないのだろう?」
当然のことながら、僕の英語の成績、受験英語の成績は上昇に転じることはなかった。
ちなみに、高校一年のときの英語教師は今でも夢に出てくることがある。もちろん、その夢の中の僕は予習を忘れている。
だが、さすがにそうも言ってられない。高三になって焦った僕が選んだのは以下の講座だった。
http://www.tokyo-sim.com/supersim.html
長文音読を、一定の区切りをもって一日30分続けるというシンプルなものだったのだが、これはよかった、本当に効果的だった。長文読解・英作文の力が飛躍的に向上した。
さて、僕は一概に中学・高校の英語を否定してはいない。むしろそれはそれでいいと考えている。
問題は中学で唐突に文法英語が登場し、おもしろくもない、意味もない、不毛な受験英語漬けの6年間に突入することにある。
これを反省してかはわからないが、小学校への英語導入が具体化しつつある。
それ自体は好ましいことだ。
その実態がどうなのかはわからないが、敢えて言わせてもらえば、小学校低学年では聞き取り中心のコミュニケーション。
高学年ではスピーキング中心にシフト、そして中学校からはヒアリング・スピーキングに付加する形での文法学習、高校ではさらにそこに少し重めの長文読解、と進んで行けばよいのではないか。
中学から唐突に始まる文法を英語を6年も学んだにも関わらず、肝心のコミュニケーションをとることができない、挙句はそんな勉強ができるかどうかで優劣さえ競ってしまう状況ってどうなんだろう?
僕が高校を卒業しておおよそ20年になるのだが・・・・