ウラゆきさんの体験談に答えてNo2
*今から25年くらい前に、ババジが私に「グルになりなさい」と命じた手紙をくださったことが有ります。
必要な時期が来たら猊下の手紙をアップします。
今はまだその時期ではありません。
このお言葉を伺った後に、私はこうお答えしました。
「私は宇宙意識体験をしましたが、未だに普通の人間です。人生で色々しくじってきました。とてもマスター役は務まりません」
猊下は私にこうお答えになりました。
「我々は人間だ。神ではない。だから失敗もする。失敗すればそれを正せば良いだけだ」
そのお言葉は私の内奥まで沁み込みました。
ババジのような神人が「我々」と仰ったことに、私は大変感銘をうけました。
私は元来、神話を鵜呑みにしない仏教研究者でしたから「人間仏陀」「神の子ではない、人の子イエス」の考えをずっと支持してきました。
「天上天下唯我独尊」という神話を、本気で信じている仏教者と私は会ったことはありません。今まで一人も居ませんでした。
ニーチェは「ツァラトストラはかく語りき」の中でキリストを「若き神」と称しました。
磔刑にあう前に寺院で貧しい両替商を鞭打ったキリストの苦悩を弱さとしか受け止められなかったのでしょう。彼は教会キリスト教に絶望して「神は死んだ」と宣言しました。ゾロアスター教から永劫回帰思想や超人思想を学びました。ツァラトストラとはゾロアスターのドイツ語訛りです。
教会キリスト教が捏造した「神の子イエス」の偶像化に反して、人間イエスの印象はあまりにも人間的だったから彼は失望しました。
しかし、何故そこに失望しなければならない?
私は弱いデリケートな人間イエスが大好きです。
ニーチェの失望は、美人女優がトイレに行くことを知って失望する人の感性と本質的には変わりません。
ニーチェは教会キリスト教が神格化して駄目にしてしまったキリスト像を信じていたに違いありません。
だからこそ、人間イエスに我慢がならなかったのでしょう。
そうだとしたら、教会もニーチェもコインの裏表です。
私にはどっちもどっちに見えます。
*私は、ババジが人間の側面を持っているからといって失望したことは一度もありません。
覚者が人間だなんて、そんなの当たり前のことです。
それが分からない人は、肉体のババジにお会いしても猊下の神聖に触れることはできません。肉体で出会っても一度もババジにお会いしていないことになるのです。
猊下のハートに触れた人は決して離れません。もし貴方が幸運にもマハヨギ・パイロットババジ猊下にお会いすることが出来たら、宿縁を慶んでください。
猊下にお会いしても、準備が出来ていない人は、猊下の人間的要素を許容できなくてこぼれ落ちていきます。
覚者も人間だと言うことは、美人女優がトイレに行くくらい当たり前のことです。美人女優はトイレに行かないと本気で信じている人はむしろ異常です。(笑)
「覚者は人間の要素を持たない完全なる存在だ」という完全神話こそ不完全なのです。
*この世界はビデオゲームのようなマーヤの世界です。
物質が有り、物理法則があるマーヤの世界です。
切れば血が出るマーヤの世界の中で、どんなキャラを使用してゲーム世界に登場するかは、その人の選びなのです。人間臭い覚者の方が人間に近いだけ、人間のマインドをよく知っています。
キャラはあくまでキャラなのです。
覚者の表面的なキャラを見て、覚者の神聖さを見逃せば貴方は運に見放されるでしょう。
*サンカルパヨガ瞑想リトリートat日本山妙法寺 熱海道場で、半数近くの参加者が神秘体験、或いは、準神秘体験をした人が出ました」と発言したら、
この体験談を発表する前に、「瞑想初心者だから神秘体験が起こりやすい」とか、「禅なら魔境に陥ると直ぐに切り捨てる」とか「解脱を求めて発狂する人が多いからやめた方が良い」とかいう意見を述べた人もいました。はたしてそうでしょうか?
*これから申す私の以下の意見はそう述べた人に対する批判ではありません。
私は「よくある発言」に対して、私の考えを述べることによってその人たちの霊的成長に寄与できればと願っているのです。
*瞑想初心者は素直で謙虚だから神秘体験が起こりやすいのです。少しばかり瞑想が出来てきたと勘違いすると何も起こらなくなります。
ここが分かっていない人は「初心者には神秘体験が起こりやすい」などと、上から下の謂いになるのです。
初心者に神秘体験が起こりやすい理由は、初心者は素直で謙虚だからです。だから諺にも「初心忘れるべからず」と言うのです。
又私の記事を読んでいただければ分かりますが、私は何度も、「禅では魔境に陥る」という発言をしています。
マハヨギ・パイロットババジ猊下は私にこう仰いました。
「この世界には二つの道がある。
サイキックに至る道と、サマーディー(ニルバーナ)に至る道だ」
知ったかぶりの反論に付き合う暇はないので、一つお断りします。
私がサマーディーという場合、その意味は仏教で言えばニルバーナ(涅槃)であり、ジェイン教(英語訛りだとジャイナ教)でいうモクシャ(解脱)と同じです。
釈尊以降の仏教が、ヨガ・ヒンドゥー教のサマーディーの概念を「集中」という意味に矮小化していますが、こういうのはつまらない宗派主義の産物です。
ポップなヒンドゥー教とポップな仏教はお互いけなしあっています。我々には無縁な世俗的的宗派主義の世界です。覚者の教えでさえポップ化すると駄目になります。
釈尊は八正道の最終地点をサマサマーディー(正定)と言っています。正しいサマーディーという意味です。これは明らかにヨガの概念です。
ニルバーナだって元々ヒンドゥー教の概念です。
ヒンドゥーの訛りがインドです。だからヒンドゥー教とはインド教と考えたほうが分かりやすいのです。
インドに生まれた宗教の開祖は全員インドの言葉を使っているのです。仏教用語はすべてパーリー語から来ています。後年になって梵語(サンスクリット語)を使用しています。サンスクリット語はヒンドゥー教の宗教専門用語であり、ブラーミン(僧侶)だけが学習できました。王族の釈尊は梵語(サンスクリット語)を学習できなかったので後年になって使用されたのです。
*さて瞑想初心者に神秘体験が起こりやすい理由は、彼らが初々しく、勘違い上級者のように傲慢にならないからと言いましたが、もう一つ勘違いしてならないことがあります。
それは、瞑想初心者というのは、あくまで今生においては初心者だと言う意味です。
過去世で厳しい修行をしてきた人が、今生、瞑想に出会った場合には神秘体験はすぐに起こります。
釈尊は修行を初めてから六年後に正定(サマ サマーディー)を成就しました。
マハヨギ・パイロットババジ猊下は修行して二週間後に正定(サマ サマーディー)を成就しました。
後代になるほど、過去世からの修行者が覚醒する期間は短くなっています。
過去世出の修行が結実するので、現代においては
「この人が?」と思える人が覚醒しています。
それは事実です。それは過去世で彼らが修行してきたからです。
瞑想初心者に見えた人が、実は歴史の教科書に登場する偉大なマスターである場合も多いのです。だから瞑想初心者だからと侮って、その初心者に説教垂れると後で恥をかくかもしれませんよ。
過去世で修行してこなかった人は、今生でサマーディーを成就することは難しいのは確かです。
サマーディーは一生や二生で成就できるものでは無いのです。
そのような人は、もう残された時間が少ないことを自覚して、毎日修行すれば良いのです。
その場合、焦らずに楽しんでやるのがコツです。
又、貴方が幸運にも、マハヨギ・パイロットババジ猊下やヨグマタジのようなリビングマスターにお会いできたなら、過去世からの宿縁を慶んでください。
肉体ではリビングマスターにお会いしても、魂では一度も会えなかった人々の失敗を糧にしてください。
彼や彼女たちの失敗を繰り返さないようにしてください。
*次に、神秘体験、或いは瞑想体験が起こった場合、陥りやすい二つの課題がありますのでそれを指摘します。
「神秘体験と瞑想体験との違いは何ぞや?」とかすぐに哲学に走ることです。私も研究者の端くれだったので最初はそうなりました。
哲学、思想は言うまでもなくマインドに属します。
マインドで遊んでいる暇があったら、瞑想して内側に入る方が良いのです。そう気づいてから、私はあれこれ考える悪い習慣を止めました。
*「学者になりたければ哲学や思想に走るのも良いけれど、覚者になりたければ心を空っぽにすることが肝要です」
*貴方に真の瞑想体験が一日に何十回も、何百回と起こっているなら、或いは、貴方に神秘体験やサイキック体験が一日何百回も起こっているなら、
何が瞑想体験で、何がサイキック体験であるのかは、自ずと判るはずです。それが解らないとするなら、貴方にはまだまだ体験が足りないのです。まだまだ修行しなければならないのです。
人のジャッジをしている場合ではないのです。
貴方ご自身の為に内側に入ってください。
*貴方が何ほどかの神秘体験をしたのなら、それを起こさせるようにしなさい。
一回や二回の神秘体験では満足せずに、次々と起こらせるようにしなさい。
貴方に瞑想体験が起こったのなら、貴方は神の恩寵に感謝して、それを再び起こさせるようにしなさい。
これが神秘体験で、あれがサイキック体験でなどと、マインドで余計なことを考えて、新たな体験が起こることを邪魔しないでください。
私はヒマラヤでの瞑想中に、一日何百回もの神秘体験を繰り返していました。
あれこれマインドで考える暇などありませんでした。それをしていたら瞑想体験も、神秘体験も、サイキックな体験も起こらなかったでしょう。
*ニルバーナやサマーディーは「体験なき体験だ」などと、自分は覚醒を体験もしていないのに、借りてきた知識で、他者をジャッジすれば自分は取り残されていくと自覚しなさい。
言葉の定義は、所詮言葉の定義にすぎません。
瞑想の世界は言葉に表せない世界を言葉にしているのです。
Om Shanti Shanti Shanti Om(愛と平和を)