ウラゆきさんの体験談に答えてNo3

 

*瞑想体験を妨げるもうひとつの問題は、増上慢に陥ることです。

瞑想し初めの頃に神秘体験が起こる人は、過去世から修行してきた人だと言いましたが、その人でも神秘体験が起こらなくなる時期が来ます。

それは大抵、増上慢に陥っている場合です。

 

*私は36歳の時インドで瞑想に出会いました。。

瞑想を初めて1週間後に神秘体験が起こりました。

しかし、それは初めての神秘体験ではなかった。

 

*生まれて初めての神秘体験は、私が記憶する限り小学生の時だった。 

或いは幼児期に何度もあった気はするが、それを神秘体験と認識する知性は無かった。

多くの人が幼児期に神秘体験をしているけれど、それが神秘体験として認識できていないだけかもしれないと私は思うのです。

*フェースブックに書きましたが、私は17歳のある日、ふいに座禅をする気になりました。

そして座禅してから15分くらい過ぎた後に「光に還る」体験をしました。

その後も神秘体験は起こり続けました。瞑想して神秘体験が起こったのではありませんでした。

勝手に起こったのです。

私は無神論者で宗教が大嫌いだったので、瞑想をしたことはありませんでした。

*インドで瞑想を始めて一週間後に神秘体験が起こりました。

それから毎日神秘体験が起こるようになりました。

そして一日何回も神秘体験が起こるようになりました。

 

その流れが、ある日突然止まったことがあります。

私の中に慢心が出来て、他者の体験に嫉妬したり、

ジャッジするようになった時にそれは停止しました。

私がそのことに気づいて初心に帰った時に、再び神秘体験は起こりました。

 

ヒマラヤで瞑想した頃は、一日数百回の神秘体験が起こり続けましたが、どなたかが心配するように精神的におかしくなることはありませんでした。

瞑想をし始めてから、三次元的には大変なことが起こり続け、それこそ、発狂しそうになるような困難に襲われることもありました。

だからと言って、私はセラピーを求め低い次元に堕ちる道は選びませんでした。

 

それは成長にとって必要な「成長の病」でした。

中途半端なところで瞑想を止めれば、折角覚醒に向かって貯め込んだエナジーが無駄になります。

マハヨギ・パイロットババジ猊下や太母さんは「セラピーなど受けたら覚醒できなくなる」とよく言ったものです。

煩悩即菩提と言って、煩悩は覚醒の種子なのです。

 

瞑想を続ける中で神秘体験が起こり、それが単なる精神障害で終わるとするならやり方に何か問題があるからです。

失敗例しか知らない人は「解脱を求めておかしくなる人が多い。だから解脱を求めるのはおかしい」などと短絡的で馬鹿げた見解を持ちがちです。

おかしくなる人がいるからと言って、覚醒を求めること自体がナンセンスだと言うのは愚かしいことです。

ババジ猊下やヨグマタジ、釈尊のように、覚醒を求めてニルバーナを成就した人たちは沢山いらっしゃいます。

 

「覚醒を求める人は精神障害になる」という貴方の意見が正しいとするなら、すべての覚者が「マーヤから目覚めてサマーディーを成就しなさい。ニルバーナを達成しなさい」と主張するのは、全部間違っていることになります。

 

でも、私は貴方の仰ることが正しくて、釈尊やマハヨギ・パイロットババジ猊下のような本物の覚者の主張が間違っているとは思いません。

それは考えるまでもありません。

 

*半端な瞑想者は瞑想初心者に対して偉ぶって説教したがるものです。

でもこんなことを考えてみてください。

赤ちゃんがやっとよちよち歩きするのを見た親は赤ちゃんをジャッジするでしょうか?

「あら〇〇ちゃん。ハイハイが出来るようになったのね!凄いね!お利口だね!偉いね!」と言って褒めるはずです。

褒められた赤ちゃんは嬉しくなって、もっと頑張る気持ちになり、やがては立って歩けるようになります。だからたくさん褒めてあげましょう。

赤ちゃんが慢心してもそれは構わないのです。

だって赤ちゃんなのだから。

赤ちゃんは褒められて嬉しくてにっこり微笑みます。

それのどこが悪いのですか?

 

*よちよち歩きをしたばかりの赤ちゃんに、「こんなことで慢心してはいけない。禅なら魔境に陥ると言う」などと説教する親はいないのです。

神秘体験が起こったら、それを起こらせるようにするのがマスターの役割です。

それが十分に起こり続け、横道にそれた時に初めて「魔境に陥る」と諭すのです。

ババジは「それを起こさせるようにしなさい」と言っています。OSHO(和尚)も同じことを言っていました。

あらゆる覚者は、それと同時に「貴方がサマーディー(ニルバーナ)を達成してシッディー(悉地と音写=神通力)がついたらすぐに落としなさい」とも言います。覚者の教えは常に対機説法なのです。

 

それはサマーディーのスタートラインであるエンライトメントを成就した人が、シッディーパワーを得た場合の話です。

サマーディーの第一段階であるエンライトさえも成就したこともない人が、耳学問の浅はかな知識を振り回し、せっかく神秘体験をしたばかりの人に要らぬ説教して覚醒の芽を摘んでしまうのは、愚かというより犯罪なのです。

他人の心配をするより、どうかご自分の心配をしてください。

 

*「スワミジがわたしをトントンして

ベルを促したのかな?と

薄眼を開けると居なかったり

後ろから明らかに気配があって

わたしの頭の上や後ろから

エネルギーの圧を感じたけれど

スワミジは居なかったり

群青色のブーンと音のするエネルギー

を感じたり」

 

*肩をトントンと叩かれたので私が叩いたと

思った人が他にも何人も居たことは驚きでした。

「マスターの臨在を感じなさい」とよく言われます。

マスターの臨在は、最初はエナジーとして感じるようになります。

或いは、数人のリトリート参加者が仰ったように、明らかに肉体として感じられる人もいます。

マスターが視覚化できる人もいます。それはタイプの差です。

 

 

*マスターの存在を肉体として感知出来た人としてとても有名な人がいます。ラーマクリシュナです。

彼は、近代インドの覚者として、ヨガナンダ・ギリやラマン・マハリシ(英語発音ではラマナ・マハリシ)と並んで必ず紹介される方です。

 

彼はカーリー女神を愛していました。

ラーマクリシュナの前にカーリー女神が実体化して現れた話は有名です。

 

*瞑想中にこう言うことが起こることは素晴らしいことです。

それは貴方の瞑想が非常に深く進んでいる証拠です。

私も瞑想中、ババジ猊下の臨在を感じることがしばしばありました。

ラーマクリシュナは、感じるだけではなく見えるタイプの人だったようですが、

実は見えなくても感じるタイプの人も多いのです。

それはタイプの差なのです。視覚化できるタイプも居れば、聴覚化できるタイプも居るのです。匂いで感じる臭覚タイプもいるのです。色んな人がいて良いのです。

 

「いろんなことが起きたけれど

なにより変化を感じたのは

そういうものを追わなくなったこと。」

 

*どうですか?ゆきさんは魔境に陥っていますか?

「そういうものを追わなくなったこと」と仰っているのだから魔境には陥っていませんね。

 

私は体験談をアップする前に「今回のリトリート参加者の半数が神秘体験、或いは準神秘体験をしました」

と書きました。それは体験談をアップする前のことです。体験談を読む前に

「禅なら魔境に陥る」などと仰った方もいらっしゃいましたが早とちりでしたでしょう?

実際早とちりなのです。だって体験談を読んでもいない段階で貴方達はそう仰ったのですから。

どうぞ、ご自分の隠れた傲慢さに気づいてください。

それを認めるスペースのある方は霊的進化することは請け合いです。

私は貴方達を批判しているのではありません。

ただ、貴方自身の無明に気づいていただき、貴方の本来の面目に、真実の貴方に還って欲しいのです。

 

Om Shanti Shanti  Shanti  Om(愛と平和を)

 

 

ウラゆきさんの体験談に答えてNo2

 

*今から25年くらい前に、ババジが私に「グルになりなさい」と命じた手紙をくださったことが有ります。

必要な時期が来たら猊下の手紙をアップします。

今はまだその時期ではありません。

 

このお言葉を伺った後に、私はこうお答えしました。

「私は宇宙意識体験をしましたが、未だに普通の人間です。人生で色々しくじってきました。とてもマスター役は務まりません」

猊下は私にこうお答えになりました。

「我々は人間だ。神ではない。だから失敗もする。失敗すればそれを正せば良いだけだ」

そのお言葉は私の内奥まで沁み込みました。

ババジのような神人が「我々」と仰ったことに、私は大変感銘をうけました。

私は元来、神話を鵜呑みにしない仏教研究者でしたから「人間仏陀」「神の子ではない、人の子イエス」の考えをずっと支持してきました。

 

「天上天下唯我独尊」という神話を、本気で信じている仏教者と私は会ったことはありません。今まで一人も居ませんでした。

 

ニーチェは「ツァラトストラはかく語りき」の中でキリストを「若き神」と称しました。

磔刑にあう前に寺院で貧しい両替商を鞭打ったキリストの苦悩を弱さとしか受け止められなかったのでしょう。彼は教会キリスト教に絶望して「神は死んだ」と宣言しました。ゾロアスター教から永劫回帰思想や超人思想を学びました。ツァラトストラとはゾロアスターのドイツ語訛りです。

 

教会キリスト教が捏造した「神の子イエス」の偶像化に反して、人間イエスの印象はあまりにも人間的だったから彼は失望しました。

しかし、何故そこに失望しなければならない?

私は弱いデリケートな人間イエスが大好きです。

 

ニーチェの失望は、美人女優がトイレに行くことを知って失望する人の感性と本質的には変わりません。

 

ニーチェは教会キリスト教が神格化して駄目にしてしまったキリスト像を信じていたに違いありません。

だからこそ、人間イエスに我慢がならなかったのでしょう。

そうだとしたら、教会もニーチェもコインの裏表です。

私にはどっちもどっちに見えます。

 

*私は、ババジが人間の側面を持っているからといって失望したことは一度もありません。

覚者が人間だなんて、そんなの当たり前のことです。

それが分からない人は、肉体のババジにお会いしても猊下の神聖に触れることはできません。肉体で出会っても一度もババジにお会いしていないことになるのです。

猊下のハートに触れた人は決して離れません。もし貴方が幸運にもマハヨギ・パイロットババジ猊下にお会いすることが出来たら、宿縁を慶んでください。

 

猊下にお会いしても、準備が出来ていない人は、猊下の人間的要素を許容できなくてこぼれ落ちていきます。

覚者も人間だと言うことは、美人女優がトイレに行くくらい当たり前のことです。美人女優はトイレに行かないと本気で信じている人はむしろ異常です。(笑)

「覚者は人間の要素を持たない完全なる存在だ」という完全神話こそ不完全なのです。

 

*この世界はビデオゲームのようなマーヤの世界です。

物質が有り、物理法則があるマーヤの世界です。

切れば血が出るマーヤの世界の中で、どんなキャラを使用してゲーム世界に登場するかは、その人の選びなのです。人間臭い覚者の方が人間に近いだけ、人間のマインドをよく知っています。

キャラはあくまでキャラなのです。

覚者の表面的なキャラを見て、覚者の神聖さを見逃せば貴方は運に見放されるでしょう。

 

*サンカルパヨガ瞑想リトリートat日本山妙法寺 熱海道場で、半数近くの参加者が神秘体験、或いは、準神秘体験をした人が出ました」と発言したら、

この体験談を発表する前に、「瞑想初心者だから神秘体験が起こりやすい」とか、「禅なら魔境に陥ると直ぐに切り捨てる」とか「解脱を求めて発狂する人が多いからやめた方が良い」とかいう意見を述べた人もいました。はたしてそうでしょうか?

 

*これから申す私の以下の意見はそう述べた人に対する批判ではありません。

私は「よくある発言」に対して、私の考えを述べることによってその人たちの霊的成長に寄与できればと願っているのです。

 

*瞑想初心者は素直で謙虚だから神秘体験が起こりやすいのです。少しばかり瞑想が出来てきたと勘違いすると何も起こらなくなります。

 

ここが分かっていない人は「初心者には神秘体験が起こりやすい」などと、上から下の謂いになるのです。

初心者に神秘体験が起こりやすい理由は、初心者は素直で謙虚だからです。だから諺にも「初心忘れるべからず」と言うのです。

又私の記事を読んでいただければ分かりますが、私は何度も、「禅では魔境に陥る」という発言をしています。

 

 マハヨギ・パイロットババジ猊下は私にこう仰いました。

「この世界には二つの道がある。

サイキックに至る道と、サマーディー(ニルバーナ)に至る道だ」

知ったかぶりの反論に付き合う暇はないので、一つお断りします。

私がサマーディーという場合、その意味は仏教で言えばニルバーナ(涅槃)であり、ジェイン教(英語訛りだとジャイナ教)でいうモクシャ(解脱)と同じです。

 

釈尊以降の仏教が、ヨガ・ヒンドゥー教のサマーディーの概念を「集中」という意味に矮小化していますが、こういうのはつまらない宗派主義の産物です。

ポップなヒンドゥー教とポップな仏教はお互いけなしあっています。我々には無縁な世俗的的宗派主義の世界です。覚者の教えでさえポップ化すると駄目になります。

 

釈尊は八正道の最終地点をサマサマーディー(正定)と言っています。正しいサマーディーという意味です。これは明らかにヨガの概念です。

ニルバーナだって元々ヒンドゥー教の概念です。

ヒンドゥーの訛りがインドです。だからヒンドゥー教とはインド教と考えたほうが分かりやすいのです。

 

インドに生まれた宗教の開祖は全員インドの言葉を使っているのです。仏教用語はすべてパーリー語から来ています。後年になって梵語(サンスクリット語)を使用しています。サンスクリット語はヒンドゥー教の宗教専門用語であり、ブラーミン(僧侶)だけが学習できました。王族の釈尊は梵語(サンスクリット語)を学習できなかったので後年になって使用されたのです。

 

*さて瞑想初心者に神秘体験が起こりやすい理由は、彼らが初々しく、勘違い上級者のように傲慢にならないからと言いましたが、もう一つ勘違いしてならないことがあります。

それは、瞑想初心者というのは、あくまで今生においては初心者だと言う意味です。

過去世で厳しい修行をしてきた人が、今生、瞑想に出会った場合には神秘体験はすぐに起こります。

釈尊は修行を初めてから六年後に正定(サマ サマーディー)を成就しました。

マハヨギ・パイロットババジ猊下は修行して二週間後に正定(サマ サマーディー)を成就しました。

後代になるほど、過去世からの修行者が覚醒する期間は短くなっています。

過去世出の修行が結実するので、現代においては

「この人が?」と思える人が覚醒しています。

それは事実です。それは過去世で彼らが修行してきたからです。

瞑想初心者に見えた人が、実は歴史の教科書に登場する偉大なマスターである場合も多いのです。だから瞑想初心者だからと侮って、その初心者に説教垂れると後で恥をかくかもしれませんよ。

過去世で修行してこなかった人は、今生でサマーディーを成就することは難しいのは確かです。

 

サマーディーは一生や二生で成就できるものでは無いのです。

そのような人は、もう残された時間が少ないことを自覚して、毎日修行すれば良いのです。

その場合、焦らずに楽しんでやるのがコツです。

 

又、貴方が幸運にも、マハヨギ・パイロットババジ猊下やヨグマタジのようなリビングマスターにお会いできたなら、過去世からの宿縁を慶んでください。

肉体ではリビングマスターにお会いしても、魂では一度も会えなかった人々の失敗を糧にしてください。

彼や彼女たちの失敗を繰り返さないようにしてください。

*次に、神秘体験、或いは瞑想体験が起こった場合、陥りやすい二つの課題がありますのでそれを指摘します。

「神秘体験と瞑想体験との違いは何ぞや?」とかすぐに哲学に走ることです。私も研究者の端くれだったので最初はそうなりました。

哲学、思想は言うまでもなくマインドに属します。

マインドで遊んでいる暇があったら、瞑想して内側に入る方が良いのです。そう気づいてから、私はあれこれ考える悪い習慣を止めました。

 

*「学者になりたければ哲学や思想に走るのも良いけれど、覚者になりたければ心を空っぽにすることが肝要です」

 

*貴方に真の瞑想体験が一日に何十回も、何百回と起こっているなら、或いは、貴方に神秘体験やサイキック体験が一日何百回も起こっているなら、

何が瞑想体験で、何がサイキック体験であるのかは、自ずと判るはずです。それが解らないとするなら、貴方にはまだまだ体験が足りないのです。まだまだ修行しなければならないのです。

人のジャッジをしている場合ではないのです。

貴方ご自身の為に内側に入ってください。

 

*貴方が何ほどかの神秘体験をしたのなら、それを起こさせるようにしなさい。

一回や二回の神秘体験では満足せずに、次々と起こらせるようにしなさい。

貴方に瞑想体験が起こったのなら、貴方は神の恩寵に感謝して、それを再び起こさせるようにしなさい。

これが神秘体験で、あれがサイキック体験でなどと、マインドで余計なことを考えて、新たな体験が起こることを邪魔しないでください。

 

私はヒマラヤでの瞑想中に、一日何百回もの神秘体験を繰り返していました。

あれこれマインドで考える暇などありませんでした。それをしていたら瞑想体験も、神秘体験も、サイキックな体験も起こらなかったでしょう。

 

*ニルバーナやサマーディーは「体験なき体験だ」などと、自分は覚醒を体験もしていないのに、借りてきた知識で、他者をジャッジすれば自分は取り残されていくと自覚しなさい。

言葉の定義は、所詮言葉の定義にすぎません。

瞑想の世界は言葉に表せない世界を言葉にしているのです。

 

Om Shanti Shanti  Shanti  Om(愛と平和を)

 

 

ウラゆきさんの体験談に答えて No1

 

「バストリカで誰かが解放をしている

時にはわたしの感情やカルマが

解放されていきました。

自分がしなくてもよかった

誰かが笑えばわたしも笑う。

誰かが泣くと一緒に震える。

誰かが幸せならばわたしも幸せ。

本堂はもうわたしになっていました。

そこにはわたし以外の人は居なかった」

 *流石はゆきさんです。

お答えしたいことがありすぎて、中々コメントできませんでした。そうなのです。内側の瞑想スペースが広がると自然にこうなるのです。内側のスペースを広げることは理屈としては簡単です。

コップの中の水を捨てればいいのです。

コップの中の水とはマインドの象徴です。

コップの中の水を捨てれば、即座にコップの中には

空気が入ります。この空気はの象徴です。

 こういうと、瞑想性に乏しく、ヘッドに走る悪い癖のある人は、簡単すぎて得心が行かないようです。

シンプルで分かりやすい答えだと、何か不満の人もいるのです。

ヘッドで生きているとそうなります。かつて私もそうでした。

 しかし、真理はとてもシンプルなものです。

真理を知りたいのなら、先ずはマインドを捨てて無心になることです。

それが体得できると、ゆきさんが描写する瞑想的世界が発現します。

 

*「バストリカで誰かが解放をしている

時にはわたしの感情やカルマが

解放されていきました。

自分がしなくてもよかった

 

誰かが笑えばわたしも笑う。

誰かが泣くと一緒に震える。

誰かが幸せならばわたしも幸せ」

 

*そうです。このようになるのです。「誰かが幸せになれば私も幸せになれる」

そうそれはとても簡単なことなのです。

 

ピアスの悪魔の辞典に「人の不幸は我が身の幸せ」という名言(迷言?)があります。

大学時代にこの迷言を初めて聞いた時は、思わず爆笑しました。

私は似非宗教や、薄っぺらな倫理主義が大嫌いでしたので、人間の心理の本質をついているこの言葉は大好きでした。

 しかし、残念ながら、そう思う人は決して幸せにはなれません。こんなことは俗悪な倫理団体が言いそうなセリフで、多少気持ち悪さを覚える人もいると思いますが、人の幸せを喜んであげられるようになると、自分も幸せな気持ちになるという事実は曲げられません。

 覚醒の道は、倫理主義や道徳主義の道とはまったく異なります。

倫理道徳の価値観は時代によって変わりますが、

覚者が語る真実は時代に影響はされません。

 仏教では、覚者の識は「常なる識に非ざる道」なので、非常識と言います。

世間一般の非常識の意味とは全く違います。

常識を超えた仏の識という意味です。

今風に言えば、普通の意識を超えた超意識です。

それが仏教で語る本当の「非常識」です。

 

*「非の思想」は仏教に限らず、インドの基本的な思想です。反暴力と言えば対立を作り「暴力には暴力を」となるので反暴力とは言わずに「非暴力」と言います。

マハトマ・ガンジーが非暴力主義を称えましたが、それはインドの伝統なのです。ルーツはヒマラヤに有ります。

 瞑想スペースが出来た人は、他人の瞑想性が深まるとそこにシンクロして、自分の瞑想も深まるのです。

それが自然の摂理なのです。人間はそのようにできているのです。であるならば、この法則を利用しない手はありません。(笑)

だから、他人の神秘体験を疑い、上級者ぶって説教する暇が有ったら、そっくりそのまま、他者の良いとこをすべて貰える,一番楽で手っ取り早い、有難い道を歩むのが利口というものです。これを仏教では易行道他力の法門と言います。

 ただしこの教えを説く人は多いけれど、実践できている方は皆無に等しいです。

 「無量寿経」の中に「易往而無人」という言葉があります。「浄土は往生しやすいにもかかわらず、その浄土には人がいない」という意味です。皆さん理屈ばかりで本質を体得しないからこうなります。

 

*私の記事を読んでいる方は既にご承知のように、20年前に私はヒマラヤで半身不随になりました。

ヒマラヤのアシュラム(僧院)で、240日間、寝ないで断食しながら座禅し続けた為、達磨大師のようにいざりになりました。

しかし、マハヨギ・パイロットババジ猊下と23人のヒマラヤのアヴァター(化身・権現)様達の神秘的な力によって、私は僅か三日で歩行できる身になりました。

 脊髄損傷している私のMRI画像を見た医者達は、口をそろえて「この状態で立てるなんて奇跡です!学会でも報告されていません!」と口を揃えて叫んだものでした。

私は現在、座禅して瞑想することが出来ない身体になりました。しかしながら、座って瞑想しなくても大丈夫なのです。今回、ウラゆきさんが自然に体得したように、私は「他人が瞑想しているスペースをそっくりそのままいただける技」をいつのまにか身につけていました。(笑)

それは簡単です。そのコツとは、相手をジャッジせずに、そのまま受け入れることです。ただ空になることです。

心を空っぽにして相手の良いところを受け入れることです。相手をジャッジしている人、人それぞれの色んな状況を考えず、先輩面して偉そうに説教する人は、他者の瞑想スペースを受取ことが出来ません。

特にマハヨギ・パイロットババジ猊下のような偉大な覚者をジャッジする人は、最悪のカルマを作ると言われています。これこそが魔境です。知らず知らずのうちにそうなっている人は、どうか魔境を克服して欲しいと祈るばかりです。

 反対に人の瞑想性をリスペクトできる人は、自然に瞑想スペースを共有できるようになります。エゴを明け渡し、自分を空っぽにすると自然に仏性が流入するのです。

我々がすることは、コップの中のエゴを捨てればいいだけです。ただそれだけです。

 疑い、ジャッジメント、非難、上から下の目線の傲慢さ等、ありとあらゆるゴミを捨てればいいのです。

自分が正しいと思い、マスターをジャッジする人は何も受け取れません。それが出来ない人は、覚者と何十年一緒に居ても何も起こりません。自分が絶対的に正しいと信じて、覚者をジャッジする人は世間にはたくさんいます。

 「インド2000万聖者の最高峰」「現代の仏陀(覚者)」と称賛されるババジにさえジャッジしてきた愚かな人々を、私はたくさん見てきました。そういう愚かな人間の言うセリフはいつも決まっていました。

「皆はババジに妄信しているけれど、私は違う。言うべきことははっきり言う」

こういうことを言う人は決まって、全く瞑想が出来ず、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の三毒、つまり、貪り、瞋り、疑いが強い人でした。

彼らは雑念だらけで、エゴが強烈に強かったものでした。そういう人たちは瞑想性の高い人に対して反発して見下していたものでした。ババジにさえ見下す態度をとっていた人が居たのですから驚きでした。

 *マハヨギ・パイロットババジ猊下は、神人の側面はあるけれど、同時に不完全な人間の側面もお持ちです。

ヒマラヤのアヴァター様でさえそうなのです。そんなことは当たり前のことなのです。

生物は、ファージーな部分があるからこそ進化するのです。完全なら進化は止まります。だから、不完全とは完全さの裏返しでもあります。不完全というところに、真理が隠されているのです。

 

*ヨガは科学です。

だから偶像崇拝はしません。

「美人女優は食事もしないし、トイレにも行かない完全無欠な存在だ」というコミカルな偶像崇拝、漫画的な神話をヨガは信じません。

一部の大衆の為に神話を利用することはあっても、覚者は神話が神話に過ぎないことを知っています。

 

Om Shanti Shanti  Shanti  Om(愛と平和を)