天気の子、ほんっとうに良かった。

君の名は。を劇場で観たものの1人白けていた人間としては、ノーガードで劇場へ向かったら思いっきり殴られた気分。


東京を綺麗に描きすぎているという批判があった、と深海監督は語っていたので
全体の描写が"ほらほら、美しい東京だぞ?ラブボのジャグジーバスの光は綺麗だなぁ?"みたいな挑発にも取れて笑ってしまった。



で、題の天気の子で描かれた選択について。


東京が雨で沈む。
それを観たときはやった!やりやがった!うひょー!とめちゃくちゃテンションが上がってしまった。

しかし賛否両論があるらしく、とても驚いた。
私はそれが信じられなかった。
その後4回見てじっくり考えた。


私は自己犠牲の精神が大嫌いらしい。
正確には自己犠牲精神をエゴの一段上に据える持ち上げが大嫌いらしい。


帆高の「青空より陽菜が良い」という選択はエゴと捉えられがちだ。
一方で人柱を犠牲にして雨を止めるという選択は"社会的な願い"とか言われる。

いやどっちもエゴだろと言いたい。
社会は人の集合体で、突き詰めたら1人1人の「他人とその他人を愛する人間を不幸にしても自身が幸せになりたい」っていうエゴだろと言いたい。

別にそれが悪いという訳じゃない。

でも社会という多数派の盾に隠れてしまい、自分の願いだってエゴと言う事に気付かないのが私はとても癪に感じる。

どちらが上とかどちらが偉いんじゃない。


帆高を自己中心的と批判する人を見ると「何も知らない振りして」というあの台詞が脳裏を過ぎる。


深海監督のインタビューにて

>人の願いは、時に他の人の願いとぶつかることがあるんじゃないかということなんです。

というコメントを見つけたが本当にその通りで
(そりゃ映画作った人だからその通りなんだけど)

どちらも突き詰めれば願いなんだよ。

帆高が自己中ならみんな自己中だよ!!


そして帆高はラストシーンで明確に選択の責任を引き受けた。

大人たちの"世界なんて元々狂っている"という気休めに対して
"違う""確かに選んだんだ"と。

自分の選択が誰かを悲しませる。誰かの迷惑になる。
それでもこの道を選んだ。


自分の願いを社会や世間で武装してしまうと、結果への責任も有耶無耶になる。
どうか当事者意識を持って欲しいという強い気持ちが伝わってきた。


とても社会風刺の効いた作品だった。



 


どうでもいい話
以前私がゲーセンに行こうと街を歩いていた時、たまたま拉致被害者のポスターが目に入った。

世間に疎いのでそこまでちゃんと考えたことが無かったけど、ふと、この人の家族は今も必死で今も悲しんでいるんだろうなあと思った。

世論がもっと関心を持てば何かが変わるかもしれない、でも私は全く関心を持ってない。

もし私が拉致被害者の家族だったら、アホ面下げてゲーセンに向かう私の事、憎いだろうな、そう思った。

私も何も知らない振りをしているうちの一人だなあ。