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テレビでさだまさしさんを見ていたとき

 

 

ふとムツゴロウさんを思い出しまして

 

 

なんだかとても雰囲気が二人は似ているなと

 

 

驚きました。

 

 

 

 

 

つらいことがあってもどこか達観していて

 

 

人生どうにかなると笑い飛ばして生きてきたような

 

 

ひょうひょうとしたところが

 

 

似ています。

 

 

 

 

さだまさし

 

 

Wikipediaより抜粋

 

趣味はゴルフ、パチンコ、競馬、野球観戦、読書など。

 

高校・大学と落語研究会に所属していた。本人は「人生は明るく、歌は暗く」がモットーと話す。

 

幼少時は、父が材木商を営んでいて、かつ自宅は部屋が10以上もある豪邸だった

ただし、1957年の諫早の大水害によって父の事業は失敗し一家は豪邸を失い小さな長屋住まいとなる。

3歳よりヴァイオリンを習い始め、ヴァイオリン指導者として高名な鷲見三郎に認められ、長崎市立西北小学校卒業後、中学1年生のときヴァイオリン修行のため単身上京する。

上京後、本来の目的であったヴァイオリンの腕を磨く努力はしていたものの、音楽高等学校の受験は失敗という結果になってしまう。

高校卒業後、國學院大學法学部に進学した。尚、大学は数ヶ月程度で中退。

肝炎を患ったことをきっかけに長崎に帰郷する。1972年、高校時代からの友人吉田正美が東京から長崎にいる さだを訪ね、以後二人は意気投合し同年11月3日、バンド「グレープ」を結成、音楽活動を開始する。やがて音楽プロデューサー川又明博にスカウトされ、1973年10月25日に「雪の朝」でワーナー・パイオニアより全国デビューした。

1976年春に解散した。

 

 

1976年のグレープ解散後、一時業界からはなれる。体調を崩していたさだは、療養と共に就職を考えるも活動が上手くいかず、同年11月、「線香花火」でソロ活動を始める。その際、グレープ時代の所属事務所であったザ・バードコーポレーションから離れ、自身のプロダクション会社であるさだ企画を設立。

 

1978年10月に個人レーベル「フリーフライト」を設立し、1979年1月に同レーベルから初のシングル「天までとどけ」をリリースした。同年7月にリリースした「関白宣言」は150万枚を超える大ヒットとなる。

1980年、映画『翔べイカロスの翼』(主題歌は「道化師のソネット」。共演は原田美枝子)にサーカス団のピエロの青年役として主演、音楽も担当する。

さらに、中国大陸を流れる大河を舞台にしたドキュメント映画を制作することを構想し、『長江』(主題歌は「生生流転」)の企画・監督を行い、同作品は1981年11月に公開された。

映画自体は120館上映というヒットであったものの、(さだは映画制作の世界の一般的な資金調達のしくみを知らず、うかつにも さだ自身の支出で映画を制作しようと考えてしまったことが原因となり)さらに中国での撮影でのさまざまな障壁もあいまって撮影期間が延びたこともあってさだの予想を超えて制作費が膨らみ、結果として約28億円(さだ曰く金利を含めると35億円)もの借金が残ってしまった。大抵の人ならば、このような額だと自己破産手続きを進めることを考えるところだが、さだはそのようには考えず、ひたすら律義に、これを返済してゆくことを決意する。

 

1981年、フジテレビ系ドラマ『北の国から』の音楽を担当する。テーマ曲「北の国から〜遥かなる大地より〜」は歌詩のないものだが非常に有名な曲となる。

 

1987年8月、故郷長崎市で「長崎から広島に向って歌う」無料平和祈念コンサート『夏・長崎から』を開催した。以後2006年までの20年間毎年8月6日に長崎でコンサートを行い、地元市民だけではなく全国からファンが集まる長崎市の夏の一大イベントとなった。

 

1996年、長崎県県民栄誉賞を受賞した。

 

児童書『おばあちゃんのおにぎり』発刊、2002年にひろすけ童話賞を受賞する。

小説集『解夏(げげ)』発表。2004年に映画化、フジテレビ月9枠で『愛し君へ』としてドラマ化。

2004年12月、長編小説『眉山』発表。

 

2006年1月1日未明にNHK総合テレビでさだ司会の生放送特番『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』が放送される。その後も続編が制作され、2020年現在も月に1回程度の放送が続いている。

 

 

 

 

ムツゴロウ

 

 

Wikipediaより抜粋

 

 

 

1935年に福岡県福岡市生まれ、医師の父が満州国に赴任したため、幼年時代を満蒙開拓団の村で育つ。

太平洋戦争のさなかに、兄の受験に同行して帰国。中学、高校時代を父親の郷里である大分県日田市で過ごす。

 

大分県日田市にある大分県立日田高等学校から東京大学理科二類に現役で合格

父からは医学部医学科への進学を望まれていたが、結局父に無断で理学部動物学科を選択し、動物学を専攻。学部卒業後に大学院理学系研究科修士課程に進学してアメーバの生理学的研究に携わる。

研究の途上で文学の世界で生きるか、研究者の世界で生きるか悩み、自殺寸前まで精神的に追い詰められ、突如研究室から姿を消した。

 

1961年(昭和36年)、学習研究社の映像部門に就職し、理科関係を中心に学習映画などの作成に携わる。しかし、社の成長による巨大企業化とそれによる社風の変質を嫌い、社長に直訴状を送って退職

その後は、文筆業に専念することになる。

 

1969年(昭和44年)、金の星社から子供向けSF『ゼロの怪物ヌル』、『天然記念物の動物たち』などを刊行。1970年、『ムツゴロウの博物志』を刊行。以後、いわゆるノンフィクション作家となる。

中学校時代に出会った同級生の女性と結婚し、娘をもうける。娘を生物に深く触れさせて育てたところ、魚の命を奪って食べることを拒絶するようになったことに衝撃を受け、もっと深く生の自然に触れさせて、表面的な生き物好きの精神の虚弱さを払拭させて育てることを決意した。

 

1971年、東京を離れ、北海道厚岸郡浜中町の嶮暮帰島に移住。さらに対岸の本土地区に移り、1972年に「ムツゴロウ動物王国」を開園

1979年には標津郡中標津町にも広大な牧場やログハウスの自宅を有したムツ牧場を開園。ここで多くの動物を飼育しながら文筆生活を送るうちにヒグマとの生活を描いたエッセイや、天然記念物に指定された動物の保全の現状を追跡したルポなどで文壇での成功をおさめる。

 

 

「ムツゴロウ動物王国」は原則非公開だったため、北海道で培ったノウハウを生かし、「都会の人々に動物にふれあってもらう」というコンセプトで、2004年7月28日、東京都あきる野市の東京サマーランド内の約9万m2の敷地に観光施設としての「東京ムツゴロウ動物王国」を開園

 

東京ムツゴロウ動物王国は集客が伸びず、2006年10月14日、「ムツゴロウ動物王国」の運営会社だったグローカル21が破綻し、負債総額8億円に上ることが明らかとなった。「東京ムツゴロウ動物王国」が2007年11月25日で閉園、活動発祥の地である北海道へ戻ることが発表された。

東京ムツゴロウ動物王国の運営資金を個人保証で借り入れていた関係から、個人としても約3億円の借金を背負ったが、執筆・講演活動などの収入で約8年間かけて借金を完済した

 

 

日本プロ麻雀連盟に於ける段位は九段。麻雀の腕は相当のもので、2012年現在も存在するタイトル戦「十段戦」は、あるプロ雀士が「連盟の最高位は九段だが、ムツゴロウさんは十段の実力の持ち主」と評したことにちなんで創設された。

囲碁はアマチュア五段の腕前。50歳頃から絵も描き始め、年に1回のペースで個展を開催している。競馬も好き。55歳よりゴルフを始め、週刊ゴルフダイジェスト誌に連載を持つまでに至った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人はやりたいことを

やるために生まれてきて

大変な出来事が起こっても

 何度でもやり直せる

 


それを体現してる人たちだと

思うのです。