大変重いテーマであったし、今でも議論されるテーマであった。
天皇に戦争責任はあったかというテーマであった。
映画では、マッカーサーの副官として来日した軍人、ボナー・フェラーズ(1896~73)がマッカーサーの命を承け、戦争遂行に責任を負っていた政府要人らとの接触をしながら、戦争責任は誰にあるのかということを探っていくというスタイルを取っていたというか、史実でも、映画のように戦争責任の有無について、マッカーサーに助言をしてただろうと思いますし、マッカーサーの判断にも影響を与えたと思われます。
その中で、日本人の女性との恋愛を織り混ぜながら、徐々に当時の日本人の精神構造を理解していくという流れであった。
今からネタばれですからね。
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結局、映画では、天皇に戦争開始の責任があるかどうかは分からないものの、御前会議にて、戦争終結の聖断をなされる平和への努力をしたということになった。
最後のシーンでは、天皇とマッカーサーの会見のシーンであった。
正式な記録には残ってないが、マッカーサーは回想記に、この日の模様を記している。
『 「タバコに火をつけて差し上げたとき、私は天皇の手が震えているのに気がついた。
天皇の語った言葉は、次のようなものだった。」
天皇は「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした。」
「私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとったのである。」』
映画でも、このような感じで、全責任は天皇である私自身が負うのであって、日本国民には、責任は一切ないというものであった。
私は、このシーンを受けて、涙した。
私は、少し涙がこぼれる程度であったが、両隣りの一つ空けた席に初老の男性が座っていたが、二人とも泣いているのが分かった。
ああっ声なき声が、初老の二人の方には、あるんだなと思いました。
ただ、映画に流れている思想に軍部の独走が、軍国主義に陥らせ、軍部の狂信者が、無謀な戦争に突入させていったという歴史観に埋め尽くされていた。
だが、私は絶対にそれを認めない!
日本の軍部は、日本国民と陛下の意思を受けて、欧米の人種差別主義と帝国主義と植民地主義を終わらすために聖戦を行ったのだということが言いたい。
この映画はいかにも、真珠湾に対して、卑怯なスネークアッタクを行ったとの表現しかしていない。
それは、違う。
日本を徹底的に叩く策が、アメリカには十数年も前にオレンジプランとして練りに練られていた。
石油禁輸もその一つである。
それをされたら、世界に冠たる連合艦隊がただの鉄くずになってしまう。
これは、当時の国民からして、日本の何十年の努力を雲散霧消にするものである。
そのため、徐々に追い詰められた日本が、このまま戦争をしなければ、座して死を待つだけの状態になる寸でのところで、真珠湾攻撃に誘いだされたのであって、軍部の狂信者の独走ではないし、日本は、そもそもアメリカの術中にはめられたのに等しい。
また、世界は人種差別に覆われており、日本人はイエローモンキーとアメリカ人に蔑まれ、日本人移民は、排日移民法により全面的に禁止になり、日系人はアメリカ人にもかかわらず、唯一強制キャンプで収容されたのだ。
黒人は選挙権のないのが当然で、フィリピンはアメリカに占領されており、インドネシアはオランダに、インドシナはフランスに占領されていた。
そのような世界で、日本は唯一、人種差別主義の撤廃と植民地主義の撤廃を掲げ、白人至上主義に対する大東亜戦争という正義の戦争を起こさざる得なかったのである。
日本なかりせば、今も、人種差別や植民地はなくなってないのが現実といえる。
唯一世界で、日本の軍人だけが白人帝国主義に立ちあがり、白人には敵わないと虐げられていた植民地の人々に勇気を与え、民族の自決を促したのである。
この点だけは、いいたい。
映画の中の思想は、間違っていると。
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