清濁併せ呑むことの必要性 | 幸福を実現するブログ

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下記が清濁併せ呑むの意味です。

【清濁併せ呑む】(せいだく あわせのむ)

善・悪のわけへだてをせず、来るがままに受け容れること。
度量の大きいことをいう。  
《広辞苑》


(大海は清流も濁流も区別することなく迎え入れることから)
善人も悪人も、善も悪もわけへだてせず、来るものはすべてあるがままに受け入れる。
広く大きい度量があることのたとえ。 
《成語林》



「清濁」とは、もともと澄んでいると濁っている事の意。

それが転じて、善と悪などの意で用いられるようになりました。

心が広く、度量の大きい寛容な性質の形容として用いられれています。

大海になりたければ、清流も濁流も分け隔てなく、受け入れないと大海にはなりません。

これは、嫌いあれは嫌いと選り好みしてては、大人物になれません。


ただ、これは、難しいことです。

多くの人は、清濁併せのむことはできません。

私もその一人です。

だから、修行というものがあります。

人生は一冊の問題集と言われています。

清濁併せのむというのは、私の修業課題で問題集にも載っているのでしょう。


善も悪も受け入れ、愛するとことといえば、イエス・キリストを思い出します。

マタイの福音書にはこのように書かれています。

「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。

もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」


清濁、すべてを許したイエスの言葉です。


私も、すべてを許したいとこの言葉を見て思います。