心を磨きピュアな魂を維持しなければならない

救いは押し売りするものではなく、救われたいと願う者が選ぶもの

我らは時に命懸けで事にあたる、しかしそれは使命であり当然の事である

命懸けの対価など得ようとする事は万死に値する

心に驕り高ぶりがあれば真実は歪み、他者からの助言も疎ましい雑音になり。自らを滅ぼす結果となる

特別な力を持っているのではなく、特別な人間でもない

役割を与えられた

ただそれだけのことである

誰もが訓練すれば、ある領域までは到達できる力

怠れば一瞬でなくなる

自らを離っし、波立たぬ湖が如く心を養い魂を磨く

これこそが原点であり、最終到達点なのである
霊体は攻撃的ではなく、自らの意志を伝えたいだけで

恐れるのは人間の勝手な感情に過ぎない

あるタレントが霊に対し、塩やお札は霊を怒らせると言っていたが

元来の使い方を間違えているからであり、その方法を知らないが為に誤解を生むのだろう

塩は霊体を払い落とすものではなく

自らの身体の汚れや場所の汚れを洗い流すものであり、汚れが落ちる事で害をなすものを近ずけなくしたり

また、汚れを落とす事で害を無害に浄化するのです

お札は

大きく分けて、持ち符と張り符があり

持ち符の殆どが、悪き事を避けるのであって、霊体に攻撃をするものではないのです

これもまた使い方を間違えているとしか思えません
人間である事に疲れ、人間そのものが嫌いになる

でも結果、人間を導いて行く

悲しい運命だと
25名参加のセミナーを開催しましたが

やはり内容が参加者には難しかったようで

反省中

次は実施を交えわかりやすくしたいと思います
その体内に宿すエネルギーは、大地や自然の中にある

そして、更に大きなエネルギーは宇宙からもらう

数ある宗教や施術は、たんに捉えかたの違いに過ぎず

神や仏もまた形あるものではない

全ての始まりは宇宙にあり、終わりもまた宇宙なのである

全ての命には霊性があり

宇宙と言う胎内に存在するのであるから
全ての能力は自身が謙虚であり続けることでさずかるもの


私の相談者から、よく聞くことがある


ある有名能力者にいわれたそうだ


「私を信じなさい、そうすれば救われる」と

また、あるときは

「私を信じず、怒らせたから願いがかなわない」「二度と叶わなくなる」と


私から言わせれば、その時点でその能力者は信じるに値しない


何故なら


私たちの力は、神仏より授かりしもの


自らの力と勘違いした時点で失うからである


自らを奢る者は初心に帰るべきである


救いを求める者は藁にもすがる思いでいるのだから


真の能力者であるべき心を忘れるべからづ
仏教で「苦しみ」というのは、「思い通りにならないこと」をいいます。確かに、苦しいとき、冷静に自分の苦しさの根源を見つめてみると、思い通りにならないで苦しんでいる自分に気がつきます。人間関係や仕事上の悩みなどもそうです。

 「四苦」とは、もっと根源的な苦しみで「生老病死」の四つをいいます。どんな時代に生きていても、誰の身にも起こり得る、けっして逃れることの出来ない現実です。命をいただいたものの宿命と言えるでしょう。一応、私たちは平均寿命あたりまでは生きる権利を得ているような気でおります。しかし、実際のところは誰も分かりません。それがいつどのように起こるのか。

 お釈迦さまは、この生老病死をどのようにお感じになったのでしょうか。有名な「四門出遊」の物語を紹介しましょう。幼い王子の頃から、物思いにふける陰気な性格だったと言われます。父の王様は、何とかして陽気にしなければならないと城外へ遊びに出すことにしました。

 最初の外出は東の門からでした。途中、歯が抜け、髪が抜け、やせ衰え、しわだらけの老人を見ます。王子は御者に聞きました。「この人は何者か。どうしてこのような姿なのか」 御者は「これは老人です」と答えました。さらに王子は「私もこのようになるのか」と聞くと、「生あるものは貴いものも、賎しいものも、この苦しみを免れることは出来ません」と御者は答えました。これを聞き、すっかり気が萎えた王子は城に戻ってしまいました。

 二度目の外出は南の門からです。途中、病人が路傍で転げて苦しむ姿を見ます。「人間は誰もが必ず病気になります」と聞き、すっかり気が萎えて、再び外出を取りやめてします。

 三度目の外出は西の門からです。途中、死者を嘆き悲しむ人々と出会います。王子は御者に聞きました。「死者とは何者か」「わたしも死ななければならないのか」 御者は「そのとおりです。人はいずれは死ぬべきものであり、あなたもまた避けることはできないのです」と答えました。王子は深く心を打ちひしがれて馬車を引き返しました。

 最後の外出は北の門からです。途中、黄色の袈裟をつけ、乞食のための鉢を手にもち、じっと前方を見て歩く人と出会いました。「この人は何者か」と王子が聞くと、御者は、出家した修行僧であると王子に教えました。王子はすぐに馬車を下りて「出家にはどのような利益があるのか」と尋ねました。修行者は「正しい教えによって心の平安を求め、慈悲をもって衆生を救うのが出家の利益です」と答えました。王子は「人間世界にこれに勝るものはないであろう」とたいへん喜び、たちまち生気を取り戻されたといいます。

 自分のこととして考えて見るとよいと思います。私たちは、自分の「生老病死」を意識しているでしょうか。お釈迦さまの時代とは異なり、平均寿命は長く、多少の問題はあるものの、医療や福祉の社会保障は格段に進んでいます。命をいただいて生かされている。有り難いことです。ないことを嘆かず、あることに感謝したい。健康であれば、働ける体があれば、いたずらなくお役に立てるよう勤めたい。それを喜びとしたいものです。 
元来、戒名は生前に出家僧がつけるもの

俗世を捨て仏の弟子になることを意味する

罪業の全てを無にし、俗名とは別人となる

しかし  


現在は、戒名にも値段がつく・・・

人は生まれ、知らず知らず罪を犯す

しかし、それもまた生きた軌跡である


ならば

私は戒名など要らない


堂々と生まれ親の付けた名前で精査をうけよう


この名前で生き

この名前で出会い

この名前で作りあげたのだから


胸を張り仏の弟子となろう

何故なら仏は名前で差別はしないから

全ての者は、すでに仏のでしなのだから

宮崎の家畜達の悲劇は目にあまるものがある

前回の鳥インフルエンザにせよ、今回にせよ

感染していない個体まで殺処分されている現状に私は疑問をえる

確かに家畜流通の観点からみれば、何らかの措置は必要だろう

では何故?

新型インフルエンザ流行の時

人は殺処分されなかったのか

同じ命なのに


私たち生きる者は、他の命の上に成り立つ

食べられて他の命に変わる魂は、救われるだろう



今回のように命を絶たれ、ただ捨てられる命


全ての命は平等に、生きる権利と死ぬ権利をもっているのに


私は動物愛護の精神論者ではない


ましてや今回は、ワクチンも人体になんら影響がないのに

人間のエゴでしかない殺傷に憤る気持ちはかくせない


無知な人間の独り言でした
相談の件数が増えたのはいいのですが(* ̄Oノ ̄*)

一人一人の相談時間が短くなり、申し訳なく思っていましたm(_ _ )m



でも、相談者の方々から、セミナーをと言う申し出があり

細かく知りたい事や、教えてもらいたいこと

セミナーを開けば解決するからとヾ(@°▽°@)ノ


私が一度に扱えるのは、20人が限度ですが


呪術を教えてさしあげたい


ですからセミナー開催を判断しました


一度にできるのは少人数ではありますが


頑張って行きます