教育を商取引の枠組みで捉える人々は、学校とは子供たちを選別し格付けする場だと考える。一斉テストで上位者には報償を、下位者には罰を。

子供たちを閉鎖集団の内部で相対的な優劣をつけて報償や罰を与えると、集団全体の学力は下がる。なぜなら、閉鎖集団の中で優劣を競うのであれば、自分の学力を上げることと、周りの学力を下げることは同じことだから。そして、後者のほうが楽だから。

学習させるために市場原理主義者たちは、「自己利益」を道具に使った。しかし、教育というのは自己利益のために受けるものではない。
教育の受益者は、子供自身ではない。社会そのものが受益者。一生懸命子供が勉強してくれて、市民的に成熟してくれると、社会全体が救われる。

子供たちに向かっては、「学校に通ってきちんと勉強して市民的成熟を遂げてください」と強く要請しなければならない。まともな?大人が一定数いないと世の中はもたない。だから、教育を受けさせる。だから、義務なのだ。

「バスに乗り遅れちゃいけない」というような言葉を政治家が口走る時、既に他人がルールを決めたゲームの中で、どうやってうまく立ち回るか考えているだけであり、自分でバスを設計し、路線を決め、運転し、乗る人を集めるという発想が全くないことを暴露している。

今はもう競争の時代ではない。

予断を許さない激動の中で、日本はどう振る舞うのか。国際競争ではなく、構造そのものが問われる。乏しい資源をどうやってフェアに分かち合うのか。競争的環境を抑制して、お互いに支援し合い扶助し合うネットワークをどう構築するのかが喫緊の政治課題となる。