つらつらとの事 | angoの世の中フラリフラリと

つらつらとの事

メディアは事実を伝えないと言い
それがいけないという言い方もあるけれど

メディアの何が事実を伝えなくてはいけない立場だと思うのだろう

情報は正しくなければいけないというけれど
正しいとはどういう事なのだろう

意見にばら付きがあると言うが
なぜ感じ方と判断の仕方をひとつに統一する必要があるのだろう

信じたいのか?
テレビラジオ新聞の言うことを信じたいのか?
ネットに流れる雑多な話を信じたいのか?

信じる事で責任転嫁か?

いや
信じさせるものはいつでも無責任だと知っている

事実を知りたいというのなら
事実らしき事を推測すればどうだろう
それを口にすれば
それは違うというだろう
つまりそれが視点の数だけの真実というものの存在証明だ

事実にはいくつの顔があるか
もっとも単純に想定すれば二つ
良しと嫌であろうか

更に無段階の差異を含めれば
世の中は白と黒を含まないグレーで構成されているのがわかる

正解の無い中であれこれ言うから人間社会であって
賛成出来る意見の殆どは自ら導き出した答えである事は疑いの無い事実で
それに対する反対評価は即ち
評価する者の自己の意見を肯定する自己評価に過ぎない

意見や判断というのはどこかで合意に達する必要は無いのである
同一の者は存在しないのであるから
もし夫々がひとつの問題に真面目に対置すればするほど
その答えはかけ離れるのである

そこで違うものを違うものとしてその存在を認めれば万事平和裏に片付くのだけれど
平和の為にという前提に
その存在を認める事は実は平和では無いという事も事実で

オイオイ一体それではどこに平和があるのかと問われれば
平和などというものはこの世には無く
暫くの平穏に似た様子があるに過ぎないという答えしか用意できない

これはあくまでも個には意思があるという前提での話だ
個を無に置き換える事が出来るのなら
無に置き換えられた個はその存在の否定を自ら下した事になり

ある境地に自らを置くことになるだろう
そして
一般的ではない死に方でそれを表現して役目が終わる
果たされた役目は当然その外に居る者の役には立たないから
いずれ別の形で認識される事になり
結果そういう境地の導かれたる者の最期は
他者にとってはあまり意味の無い事のひとつになって時間にうずもれる

事実は残るだろうがその境地では無いものには
その意味すら実感できず

あれこれ思うが
何をどう思ったところでそれは理解できない
それは他人事になって益々自分の世界を拡大する

マスコミ等という物に真実を求める姿勢は実は安易な逃げでしかなく
この世にありもしない
ひとつの事実のひとつの真実をマスコミに求める事で
自らの思考を停止させているのだ


あれこれ言ったところで
それに力が無いなどと悲観する必要は無い
それらが淀みのない力になった事など一度も無いから
いつまでも変化の無い問題の中で人が生きて来たのだから

人間が人間として社会を作り始めて以来の問題の本質はあまり変化していない
その積み重なったものを察知出来る今だから
殊更に人間社会について思うのだろうけれど

これが1000年前であっても
2000年前であってもその当時は常に現代であって
人間は何時でもその時々の真実に興味を持ってその都度
歴史の中で足掻いて来たが

結局は時間が過ぎるとその当時の現在は歴史のひとつになるという事しか経験しては居ない

詰まるところ人類は常に不満に満ちた時間の中であれこれ言うのだ

この空しい仕事の繰り返しが無駄かと言うとそうでは無いところが
遣りきれないのだけれど
それを拒否すれば人類は人の集団とは違う生き方を探さなければならない


人類は進歩したと言えども進化はしていないのだ
という言い方は
この意味でとても正しい

進歩したという評価ですら怪しいものだ