たまに、ちらちらと顔を出す悲しい思い。

いつも蓋をしているのに、

今、ニュースなどを見ると、どうしてもこじ開けられてしまう。


川島なお美さん。

ファンではなかったけど、ご冥福をお祈りします。

憎きガンと闘って、闘って、闘い抜いて。

この前まで、微笑んでいられたのに、

最期の階段を降りられるのが速すぎて、驚きました。

最期に、ごめんなさいなんて・・・。

ごめんなさいだなんて・・・・。

なお美さんと旦那さんの気持ちを思うと、胸が詰まります。


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私は最近情緒不安定で、

以前よりも、私を遺して全員いなくなってしまった家族のことをよく思い出すようになって、

なぜかと考えた時、

やっぱりこの悲しさが、消化しきれていないのではないかと思い始めました。

消化するようなものではなくて、ただ時間が解決するのか?


ひとり遺されれたこと。

私の知らない両親や兄弟や、思い出話をする人がいなくなったこと。

それが悲しいのだと思っていました。


最後に亡くなった姉のことを考えるのが一番つらいけれども、

遺された旦那さんや、子供たちが何倍も辛いんだから、

私は、こんなに悲しむべきではないと思っていました。

ひとりっ子だったら、両親が亡くなった時点でもう一人なんだからとも。


子でも、夫でもない私がなぜこんなに悲しいのか考えて、考えて、

悲しみ切ればいいのかなと、とことん泣いて泣いてみました。

そうすると、どんどん悲しいことが心に現れ、

一番悲しいことは何かがやっと分かりました。


姉の気持ちを考えると、あまりにも悲しすぎるのです。


私達の、両親・兄が亡くなった後、姉はよく私に、

「検診に行きなよ。」と言っていました。

独身だった兄が余命1年と宣告されたときは、

2人で医者に話を聞き、兄には知らせずに、遠距離介護をしました。

寡黙で、我慢強く、私達に一言も弱音を吐かなかった兄。

最後まで諦めずに全力で治療に励んだ兄。

最後の5日間ホスピスに入ったけど、

最期まで何も語らなかった兄。

姉とたまに、「何考えてたんだろうね。」と話しました。

「でも立派だったね。一切弱音は吐かず、痛いとも言わず、

ゆがむ顔を見て医者が察して薬出すぐらいだもんね。」

「すごいよね。最後まで、諦めないでね。」って。


兄が亡くなり、2人姉妹だけになってしまった私たちは、

離れているけど、たまに会い、以前にもまして電話で話すようになっていました。

そしてある時、

「悪い話なんだけど・・・。検診でガンが見つかってね。」



それからは手術して、治療して、私は心から、治ると信じていました。

手術から半年しても、パソコンを通して見る顔はふっくらしていて安心していました。

ところがある時、突然メールが・・・



「余命1か月と医者に言われたのでホスピスに入ることにしました。」


わたしは、

「は~?!ふざけるな!!そんなことあってたまるか!!!」と思いました。

そのまま姉に伝えるのは良くないと思いつつ、本当にそれしか頭になく

結局そのままをメールで送ると、

「ごめんね。」



ごめんねなんて!

ごめんねだなんて!!




これが、

この言葉が、

私の悲しみの、

すべてだった。



その後、なかなか会いに行けなくて、

会いに行ったときには、骨と皮だけでショックだった。

ほんの1週間まえまでふっくらしてて、普通に話していたのに。

2か月前は、旅行にまで行けたのに。

2日だけ話したら、もう急に意識がなくなって、

話せなくなっちゃった。

その夜に、逝っちゃった。


家族に、思い残すことはないって言ってたって。

だから、家族も思い残すことはないって。

でも私は、姉がどんな気持ちだったかと思うと、

悲しみが止まらない。

両親・兄を見てきて、自分がこれからもう死にゆくのだと自覚して

どんな気持ちだったのか?

立派に亡くなった兄を思って、弱音が吐けなかったんじゃないか?

あんなに健康に気を使って、病気になってからは闘って、負けてしまったのに

思い残すことがないなんて。

遺される者のために、言っていたのではないか?

遺される者のために必死に幸せを演じたんじゃないのか?



どんな気持ちで、私に

ごめんね。

と言ったのか。




これを書きながら、泣いて、泣いた。

もう、吐き出した。

不思議な媒体を使ったけど、吐き出せた。

もう、泣きたくない。

泣くだろうけど、書かない。


おしまい。



*この記事は、そのうち誰も受け付けないアメーンバー限定にするかもしれません。