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~私線を越えて~

世界基督教統一神霊協会
通称、統一教会の信仰を持っています。日々の生活の中で感じたことや証をマイペースに更新していきます。

私は韓国の歴史ドラマが好きです。

朱蒙から始まり李氏朝鮮時代。
泣かないドラマがあったでしょうか。

うん、多分無かった。



詩や手紙が出てきますね。
この場面になると、私まず泣きます。

恨を唄うからです。

最近、
「恨」が私の中の大きなテーマになっています。


睡魔と闘いながら、
ジタバタと聖書を読み進めています。


上手く表現できないのですが、
「やっと少し、聖書を読めるようになってきたな。」
そう思えるようになりました。

ツラツラと退屈で無機質な文章が並んでいやがる。と思っていましたが、

聖書の状景を考える余裕が出てきました。
いや、神様の情景と言いましょうか。


読む箇所にもよりますが、やはり「恨」の神様を思わずにはいられません。

そして韓国の歴史ドラマを観て涙を流す時、
心情圏に、叶わなかった願い、すなわち恨に心を打たれるのです。

もちろん誇張や脚色は承知です。
しかし、そもそも
私の発想にはない世界なのです。
心の器が違う。

この心情圏が、
私が聖書を読み進めながら感じる、
神様の恨に通ずるのです。


んふ。
こりゃ選民だわな。


自分の部屋がなくなってしまった、実家の居間。
降り積もる雪を横目にブログを書いています。


雪は恨のようだ。

掻いても、跳ねても
また降り積もる。

しかし夜が明けて、冬が明けると、
温かい太陽の光で、
解けて流れて、残らない。


恨を解かすのは愛なのだ。
為に生きる、真の愛なのだ。


恨は雪のようだ。


凍える寒さの中に積もる雪を観た見た時、
囹圄の神様というみことばを思い出します。

積もった雪は恨のようで、
凍える寒さを、自ら発光体となり
温め解かそうとした
お父さまだから。


恨は雪のようだ。

恨は心を冷やすから。

だから
私はみことばを学ぶ。
聖書を読む。
私は伝道をする。
私はがむしゃらに働く。
私はブログを書く。


しがない青年の
めんどくさい情熱が
降り積もった恨を
解かすかも知れないから。



あ、そうそう。
私はかんご一派で構いませんよ(笑)
論争は最高に苦手ですがね。

あんな博識の兄やん、

いないぜよ。
あ、これは違うか(笑)

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今はどのような時か?
考えざるを得ない。


昨日、地震があった。


あまり考えたくはないが、
大きな天災が起こるのは


これからなのかも知れない。

↓特に意味はないが、別ブログに使ったプレートが残っていたので貼り付ける。


まる



癒されて下さい。

癒されたら↓

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人の怨みに触れた時、
恐怖と憐みを覚える。

人の恨みに触れた時、
その人の目から涙が溢れた。

そして、
私の目から涙が溢れた。

教会ではよく
「恨」
という言葉を聞く。

はん。
という、たったの二文字に込められた無念なる心情の世界は、
私の拙い文章力では描写できない。


ただ、涙することしかできなかった。


人はどこに行きたいと思う?

もちろん愛のある場所さ。
只々与えてくれる、父母の愛が心地良いのは。
私たちは皆の心を温める、愛の人を目指すのさ。



人が忘れられないのは、どんな人だと思う?

自分の恨に触れ、一緒に泣いてくれた人さ。

そして人の恨がわからずに、
我知らず土足で踏みつけて歩いてる人さ。

それを怨みとすることなく、
とりなしの祈りをするんだ。


彼は自分が何を言っているのか、わからないのです。
人の恨がわからずに、踏みつけて歩いてることがわからない。
そしてその全てがあなたの恨みであることが、
わからないのです。
アボニム。
どうか彼を赦して下さい。


私に、あなたの愛する一点があるとするならば、
私が、あなたに誇れる一点があるとするならば、

恨に触れることのできる大きな右手を与えて下さったことです。


何よりも、
あなたの恨みの一片にでも触れることができたという確信を持てたことが
うれしいのです。


全ての恨みが、
春の雪溶けのように、
清流に帰る世界の為に生きる。

ただ、それまでは
皆の恨に、静かに寄り添っていたい。


アボニム、あなたの恨を



共に抱きしめていたい。


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